府城の西北に当り行程1里余。
家数36軒、東西1町15間・南北4町10間。
四方田圃にて西は黒川に近し。
東2町28間
上高野村の界に至る。その村まで5町20間余。
西4町25間
神指村の界に至る。その村は申酉(西南西~西の間)に当り9町30間。
南1町10間
平沢村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り7町10間余。
北6町
下高野村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り10町。
また未申(南西)の方4町25間
高瀬村の界に至る。その村まで8町30間。
戌亥(北西)の方4町26間
上吉田村の界に至る。その村まで8町20間。
山川
黒川
村西1町10間にあり。
平沢村の境内より来り、西に流れ北に折れ、凡て6町20間流れて
神指村の界に入る。
水利
中地堰
平沢村の方より来り、数派となり田地に灌ぐ。
吉田堰
村西にて黒川を引き、上吉田村の方に注ぐ。
神社
天満宮
村中にあり。
修験地蔵院司る。
天文12年(1543年)ここの地頭平塚丹波実恒という者神前にて法楽をなし千句の連歌を試むとあれば、それ以前の鎮座なるべし。今こ
の村の肝煎覺次という者その時の連歌を蔵む(旧家の条下に載す)。
熊野宮
境内にあり
寺院
常勝寺
村中にあり。
真言宗稲荷山と號す。
府下
博労町自在院の末寺なり。開基詳ならず。
天文中(1532年~1555年)放光という僧中興せり。
本尊地蔵客殿の安ず。
古蹟
館跡
村中にあり。
東西17間余・南北30間。
平塚実恒居りしと云う。
旧家
平塚覺次
この村の肝煎なり。その先に大友氏に出づといい伝えれども家系なり。またこの地に来りし初めを伝えず。
その祖大友実国というもの 元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~1593年)の頃にや葦名氏に仕え、平沢村を領し二国若狭と改む。これよりさき故ありて平塚村にも住居せり。因てまた二国を改めて平塚氏と称す。
天正17年(1589年)葦名氏亡て後実国が子実恒浪人しこの村に退去し農民となり、6世の孫覺兵衛という者肝煎となり、相続いて5世今に至りしという。また実恒葦名の老臣佐瀬富田等と天満宮の社頭にて法楽にそなえし千句の連歌を蔵む。
左にその数首を載す。
天文十二年二月五日於中地天神法楽
何人第一
ぬさはけふとるとも花の錦哉 與輔
神かきしろき有明の春 盛治
鶯の聲する虚に雪散て 舜輔
朝何第二
明るまを霞の残す頂端哉 盛純
梅かゝくらき手枕の夢 舜輔
青柳の入江によるの舟にねて 滋實
何路第三
しらはなそ朧月夜に雁の聲 常和
門田の柳雨すくる比 重悦
家居する花の山もと水晴て 輔泰
何舟第四
春雨の空をほれせし晴ま哉 盛常
かたしひ暮ぬ燕なく宿 滋實
山さとの柴ゆふかきね長閑にて 盛純
御何第五
出て入山の端をそき日影哉 盛治
聲もはるかに雲雀飛空 方茂
わか草の野を狩衣分くれて 常和
何田第六
雲雀鳴芝生か露の秋もなし 重悦
あかぬあそひの野は暮にけり 實恒
梓弓春の遠山雲引いて 似輔
何鳥第七
篠つゝし山ちの春の行てかな 似輔
さくらの後の永き日くらし 輔泰
駒いはふ朝鷹人の打むれて 重悦
一字露顯第八
うち解て匂へ柳の朝ね髪 輔泰
まゆほの霞む遠の山のは 常敦
春の夜の更る雲井に月出て 實恒
何屋第九
欵冬やかけにおらるゝ春の水 舜輔
舟にかさしの袖の故なみ 與輔
たか詠彌生も末としたふらん 盛常
二字返音第十
花鳥にあまり彌生の日数哉 滋實
春の夜うすきしのゝめの月 常和
影かすむ灯白く消やらて 與輔
下何追加
若草はすそ野に青し嶺の雪 實恒
メモ
常勝寺は本郷(会津美里町)にならあるのですが。
ちなみに湯川町にあるのは勝常寺。
最終更新:2020年03月05日 15:25