蓮華寺


松命山と號す。
山城国醍醐報恩院の末寺真言宗なり。
開基の僧を仁範といい、紀州*1の人にて初め鎌倉雪下に住し葦名直盛の勧によりこの地に来り、康暦元年(1379年)にこの寺を建立す。
齢傾けども願心やまず高野に詣で臨終を遂んとて、旅装を催し杖に扶けられ蟹川に至る。岸上に垂釣(すいちょう)*2の翁ありていづくに往くと問う。仁範宿願の(よし)を語れば即
高野山餘所にはあらじ下荒井三鈷の松の法の朝風
という和歌を詠してその行を留む。仁範怪でその松何れに在やと問えば「汝が寺の境内にあり。これより汝が寺を松命山蓮華部寺清浄院と號すべし」とてその形みえず。仁範奇異の思をなし帰てその院中を見れば、その松正しく3葉にして3鈷称にかなえり。この松年を()て枝葉繁茂せしが、早乙女不浄衣とその枝にかけしにより(たちま)ち枯れ失せぬ。その地にまた自然に1根3茎の松生ぜしとぞ。
その後何れの頃にか水患を避け今の地に移れりという(遺址今蟹川村の境内にあり)。

昔は繁昌(はんじょう)の寺院にて寺頭も6坊あり。天正巳丑の兵燹(へいせん)(1589年)に逢て次第におとろえ所々に移り、今(なお)この寺に隷する者あり。
文禄中(1593年~1596年)13世宥明が時、蒲生氏郷の命を受け飯豊山と中興し即この寺を以て別当とせり。
慶長6年(1601年)氏郷の子秀行、耶麻郡一戸村にて50石の地を寄付す。
寛永5年(1628年)加藤明成耶麻郡稲田村にて改付す。
(なお)50石を知行せしめ、飯豊神社の別当たり。

正札

門外南の法にあり

客殿

11間に8間、南向き。
本尊虚空蔵。

庫裏

客殿の北にあり。
10間に4間。

観音堂

客殿の南にあり。
3間四面、東向。
もと村北5町20間余にあり、別当を妙法寺といい当寺の末山なり。寛永中(1624年~1645年)にその寺廃せし時ここに移せしという。
会津三十三所順禮の一なり。
昔仁範が行を留めし翁はこの観音の形を現せし也という。

鰐口1口あり。径7寸余『越州河内橋立今熊野山元弘三年癸酉九月十五日寛祐』と彫付けあり。
(元弘3年癸酉は正慶2年なり。神皇正統記を按ずるに、後醍醐天皇隠岐国より還幸(かんこう)有て正慶の號を去り元弘に復せられしはこの年の6月の事なり。また保暦間記元弘2年先帝を隠岐国に還したてまつり正慶と改元ありしかとも。元弘の年号を追う者のみ多かりしとも見えたれば、この器微小なれども考古の一證に備ふべし。
※元弘3年=正慶2年=1333年。元弘の元号云々に関してはwikipediaの記事を参照のこと。

飯豊神社

客殿の西にあり。

寶物

紺紙金泥法華経

1軸。

飯豊山図

1軸。

蒲生秀行證文

1通。その文如左
會津於分領御知行五拾石奉寄進候全可社務者也
   慶長六年十月十八日   秀行 花押
     飯出山別當坊

加藤成明證文

1通


  • 飯豊山神社(飯豊山権現)→Google Map
  • 会津三十三観音札所第十四番下荒井観音堂→Google Map
  • 蓮華寺自体は明治初年に廃寺となったそうです。

参考