府城の西に当り行程1里18町。
家数63軒、東西4町・南北41間。
中程より南に通るを本町という。
東西31間・南北1町37間。
四方田圃なり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
東2町34間
蟹川村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り8町。
西8町44間
本多村の界に至る。その村まで10町30間。
南3町51間
今和泉村の界に至る。その村まで9町。
北町53間
中里村の界に至る。その村まで9町。
また
戌(西北西)の方7町21間
荒田村の界に至る。その村まで8町。
小名
寶壽
本村の北5町50間にあり。
家数3軒、東西1町20間・南北20間。
寛政5年(1793年)寶壽院の住侶・本教という僧本村及び田村山の境内を新墾して民居を構えき。
文化2年(1805年)より寶壽と称し本村に属す。
端村
平太屋敷
本村より6町20間戌亥(北西)の方にあり。
家数5軒、東西42間・南北48間。
四方田圃なり。
山川
清水
小名寶壽の南にあり。
東西1町50間余・南北9間。
白山清水という。
小魚多し。
下流
中里・
石原・
田村山3村の田地に注ぐ。
水利
思鑿堰
倉廩
米倉
村中にあり。
本組の米を納む。
神社
熊野宮
祭神 |
熊野宮? |
相殿 |
伊勢宮 2座 |
|
八幡宮 |
|
天神 |
勧請 |
不明 |
村南5町10間にあり。
鳥居幣殿拝殿あり
神職 坂内備前
寶暦中(1751年~1764年)左近某という者神職をつかさどり相続て今に至りき。
左近は今の神職清高が祖父なりという。
寺院
蓮華寺
寶壽院
村中にあり。
護命山と號す。
真言宗蓮華寺の末寺なり。
もとは蓮華寺の院内に在て6坊の一なり。
天正の兵燹(1589年)の後寶順と云う僧この地に移せりという。
本尊地蔵客殿にあんず。
覺蔵院
村中にあり。
山號を良翁山という。真言宗蓮華寺の末寺なり。
元は寶壽院と同く本寺の院内にあり。
天正17年(1589年)宥雄という僧移してここに営せりという。
本尊地蔵客殿に安ず。
地蔵堂
端村平太屋敷にあり。
建立の年暦詳ならず。
地蔵木像、長8寸。作者を知らず。
修験霜洗院司なり。
古蹟
五重塔跡
村北20間にあり。
舊事雑考に或記を引て、應安元年(1368年)に供養せしという。
今、本郡南青木組北青木村
恵倫寺にこの村康寧山寶壽禪寺の鐘あり。『康安二年壬寅仲呂日』と彫付あり(康安2年=1362年)。蓮華寺未だ創建せざる以前既に寺ありしと見ゆ(注:蓮華寺の建立は康暦元年(1379年)とされている)。然れども来由詳ならず。
慶長16年(1611年)の地震に崩れしという。
今
田圃となり、その字を
塔内と唱ふ。
城跡
村北にあり。
米倉の地、即本丸の跡という。30間四方計。
東西北に土手を築き堀形その腰を廻る。
北方の堀は田となりその字を内膳堀と称す。
二丸その三面を周り、東西2町余・南北50間、東面は民居となりその余は田圃を開く。
その北に出丸あり。東西50間径・南北20間計、みな畠となる。
二丸と出丸との間の田の字また内膳堀という。
ここより南の方本町の南端に追手口の跡あり。すこしき土手残りその邊の宇を上城口と唱ふ。
葦名氏の時その臣富田氏(諱を失う)をして守らしめし所という。
何れの頃の営築ということをしらず。
大壇
村西4町にあり。
高1丈余、周28間。
来由を知らず。
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- 下荒井地区
- 寶壽地区 - 宝寿院付近
- 平太屋敷地区?
- 白山清水? - 付近に白山という地名の付く水場があるが関係するか? この南側、荒舘小学校に隣接している地名・八幡前は下荒井城に移転する前に八幡神社が鎮座していた場所
- 熊野神社(三所之宮)
- 下荒井城の敷地内にあった神社を合祀し現在の地に遷座した
- 蓮華寺 - 会津三十三所順禮の一。14番札所。飯豊山神社別当
- 宝寿院・覺蔵院
- 地蔵堂?
- 五重塔跡?
- 下荒井城跡
- 大壇跡 - 小高い丘のようなものがある
- 北会津村誌
- 軽井沢銀山 - wikipedia
- 村の中心部を東西に走る道は蒲生秀行が治めていた時代(元和(1616年)の頃)に作られた銀山街道の名残り。
- 会津銀山街道地図 - 福島県
- 第十四番札所 下荒井 - 会津巡礼道指南
- 陸奥 下荒居城 - 城郭放浪記
最終更新:2025年06月22日 23:06