府城の南に当り行程6里。
家数14軒、東西35間・南北1町30間、山中に住す。
四方に田圃あり。
東3間・南3町、共に
桜山村の界に至る。その村は南に当り4町。
西は数峯連なり
桑取火村の山に続き界域を分ちがたし。
北14町30間
大内村の界に至る。その村まで1里4町。
村中に下野街道あり。
神社
赤城神社
村西30間にあり。
鳥居あり。水抜村星河内が司なり。
村名の遷移:
中倉は字中平にあって倉を持っている家が多い所から命名。
明治8年に桜山村と合併して中山村となる。以後の流れは桜山村の記述を参照。
神社の位置について
追記:下郷町史より一部引用
現在はこの他に村の北西約四キロメートル茂峨沢の谷合いに不動明王を祭る三日月神社がある。明治初年神仏分離により、神格化し、祭日の七月一日が旧暦の上弦の半月期にあたるため、三日月神社と名付けられたという。昭和初年ころは近郷近在から御不動様の水を求めて、参拝に来る人の数は大変なものであった。「お籠堂」までは女の人も行けたが、その奥二キロメートル先の「奥の院」には男子だけしか行けなかった。山岳信仰の霊場で、はやり病を直すと信じられていた。
八幡のケヤキ
案内板より引用
このケヤキには、次のような故事がある。「天喜三年(1055年)人皇70代後冷泉天皇の御代、八幡太郎義家が、陸奥の豪族安倍貞任を討伐の折、険路で難渋して、中倉村の司(つかさ)二宮太郎兵衛宅に休憩した。二宮氏は手厚く歓待をして、
大沼郡尾岐村に至る間道を教えたため、賊軍不意を討たれて敗北した。八幡太郎義家は大いに喜び、謝礼のしるしに庭先にケヤキを植えた。」と伝えられる。
戦勝祈願をしたという義家の伝承は東日本の各地にあり、
会津郡高久組高瀬村の大ケヤキにも似たような話が伝わっています。
ですが、
会津郡南青木組御山村の蝦夷塚の条にもありますが、源義家が会津の地で蝦夷と戦ったとの記録は無いようです。
追記:下郷町史より一部引用
さらに下野街道を五〇〇メートル程北進すると「にが水」という地名の所がある。下野街道を通る駑者馬の背の荷物を積み直したり、馬に水を与えて休む場所であったという(古老の話)。
苦水地区は茂峨沢と大沢川の合流地点付近
最終更新:2025年07月10日 17:44