会津郡南青木組御山村

陸奥国 会津郡 南青木組 御山(おやま)
大日本地誌大系第31巻 76コマ目

この村旧小山に作り後に尾山に改む。寛文中(1661年~1673年)今の文字とす。

府城の南に当り行程1里3町余。
家数85軒、東西4町・南北8町。
東は山に連なり、三方田圃(たんぼ)なり。

東1里55間河渓村の山界に至る。その村まで1里。
西7町17間井出村の界に至る。その村まで7町40間。
南49間堤沢村の界に至る。その村まで8町50間余。
北5町41間南青木村の界に至る。その村まで6町50間余。

宇都宮街道にて村中に一里塚あり。

山川

御山

村より辰巳(南東)の方10町計にあり。
石峯(いしふう)羽黒(はくろ)樹山(たてやま)の3名あり。昔は石峯特に高く中に岩窟あり。その側にも穴ありてこの岩窟に通せしという。
昔、蝦夷強大にて官軍度々利なかりければ、夷賊(いぞく)勝に乗てここに至り、石峯山に穴を掘り四面に大石を畳み累ねその中に楯篭りて官軍を拒きしに、地中より猛火もえ出てこの山(にわか)に崩れ残らず焼死せりという。今なお山中より欠け損したる銕器・土器を得ることありとぞ(蝦夷塚の条下を併見るべし)。因て石峯は小山となりし(ゆえ)小山とも名く。焼崩れし石なりとて山下5町計の間巨石縦横に散在せり(この石、色赤く苔むして奇石多し。俗に御山石と唱え採て庭上の玩とし或は橋石とす)。
石峯の南を羽黒といい、その南を樹山という。義家朝臣館築かれし所なり(古蹟の条下に出す)因て御館山とも唱ふ。
里民昔より斧斤を入れざる習わしなり。

干鱈兀山(ひたらはけやま)

村東30町計にあり。
高50丈余。
南は堤沢村の山に続き北は南青木村の山に連なる。

子持石(こもちいし)

村より丑寅(北東)の方9町山の半腹にある大岩なり。
中より小石を生ず(ゆえ)に名く。

乾飯沢(ほしいひさわ)

村南にあり(わず)かの渓流なり。
村東の山中より出て、西に流るること1里門田堰に注ぐ。
義家朝臣乾飯をここに洗う(ゆえ)に名くという。

誓願清水(せいくわんしみず)

村北6町にあり。
周8間。
義家朝臣(はず)を以て石を穿たれしかば涌出しという。

沼2

共に村東25町干鱈兀山の麓にあり。
一を雄といい、一を雌という。
雄は周120間余、雌は周230間。
相伝て、この沼に主あり。葦毛の馬なりという。

水利

堤2

一は村東5町にあり。周90間、沼田堤(ぬまたつつみ)という。
一はその奥25町計にあり。田代堤(たしろつつみ)といい、周180間。

神社

八幡宮

祭神 八幡宮?
鎮座 不明
村より辰巳(南東)の方1町余にあり。
義家朝臣東征の勝利ありければ、報賽の為に当社を勧請せられしという。
後数百年を経て社頭荒廃せしを、寛文12年(1672年)肥後守正之再興し神事を行い流鏑馬等の式を執行せり。この時郭内諏訪神社神職諏訪近江方就という者をして永く当社の祭祀を司らしむ。相続いて今の神職諏訪近江に至る。
祭禮6月15日。府下より事を行う。

鳥居

両柱の間6尺

本社

3尺5寸に3尺、南向き。

幣殿

1間四面

拝殿

3間に2間。

若宮八幡宮

祭神 若宮八幡宮?
相殿 伊勢宮 6坐
   稲荷神 4座
   山神 4座
   権現 4座
   幸神 2座
   伊豆神
   三島神
   宗像神
   白山神
   箱根神
   羽黒神
   麓山神
   感應神
   石神
   別符神
   箸王子神
   五郎神
   若宮八幡
   上保有禮有神
   下保有禮有神
   八幡宮
   天神
   蛇神
八幡宮の境内にて西に並ぶ。
相殿48座あり。

山王神社

祭神 山王神?
鎮座 不明
村中にあり。
明光寺の縁起に、徳一が草創にて、葦名氏の時社領5斛を寄付す。蒲生氏の時失うという。
神像21軀あり。各長8寸古物なり。
鳥居幣殿拝殿あり。明光寺これを司る。

末社 稲荷神社

破壊して造営いまだならず。

天子神社

境内にあり

諏訪神社

祭神 諏訪神?
鎮座 不明
村より辰巳(南東)の方5町、御館山の麓にあり。
この邊松樹多し。俗に諏訪原という。
鳥居あり。安養寺これを司る。

宗像神社

祭神 宗像神?
鎮座 不明
村より辰(東南東)の方8町山間にあり。
鳥居あり。
照谷寺これを司る。

寺院

照谷寺

村より辰(東南東)の方7町余山間にあり。
天台宗神護山と號す。
湯本村東光寺の門徒なり。
縁起に、天平神護年中(765年~767年)の草創という。
里民の説に、この地にもと七不思議ということあり。雀巣を架せず蛭人血を吸わすという。その余は知る者なし。
もと傳教作の薬師及び十二神将を安ず。災いに罹て只十二神将8軀を存す。各長1尺1寸。
三尊の弥陀を本尊とし客殿に安ず。
また鐘を懸く。径2尺、元禄5年(1692年)府下大和町寺田治兵衛という者の寄進なり。銘あれども煩わしければ略す。

明光寺

村中にあり。
天台宗日吉山と號す。郭内延壽寺の門徒なり。
徳一が開基といい伝う。
画像の不動を客殿に安じ本尊とす。

安養寺

村より未申(南西)の方にあり。
不退山と號す。湯本村東光寺の門徒、天台宗なり。
開基を詳にせず。
客殿に弥陀を安じ本尊とす。
徳一作という。

阿弥陀堂

境内にあり

大林寺

村中にあり。
曹洞宗羽黒山と號す。
天寧寺村天寧寺の末山なり。
慶長6年(1601年)天寧寺14世怒山が草創なりという。
本尊釈迦客殿に安ず。

観音堂

村より丑寅(北東)の方山上にあり。
路の左右に松樹森列し清風断ることなくこの堂まで8町余あり。高敞にして平地の村里を一矚し尤も勝境なり。
3間四面西向。
正観音を安ず。長1尺3寸。
昔岩窟の中に安置す(ゆえ)に今に至るまで岩窟観音と称す。
会津三十三所順禮の一なり。
堂の戌亥(北西)の方に大岩相並び自然に洞をなす。俗に胎内潜(たいないくぐり)という。
照谷寺これを司る。

観音堂

村東1町にあり。
縁起に、徳一この寺にて観音の立像を彫刻し、この堂を建てんが為に良材を択び山中に積置きしに、何者にか一夜の間に木材を運送し3間四面の堂を造作せしという。
明光寺司なり。

古蹟

御館山塁跡(おたてやまのるいあと)

村より辰巳(南東)の方5町余にあり。
登ること6町計、頂上に30間四方計の平地あり。
昔義家朝臣東征の時館をここに築かれしとて今に御館と称す。
また村の中にも館跡あり。
東西1町・南北40間。
舊事雑考に允殿館(府下南町成願寺の側にあり)より尾山館を攻むる者ありし(よし)を載せ、館主は多多良伊賀なるべしとあり。

蝦夷塚

村南にあり。
高2尺余・周3間計の塚なり。
蝦夷人石峯にて官軍を拒きし時猛火のために焼死せしを埋めし所なりという(御山の条下を併せ見るべし)。俗に義家朝臣蝦夷を伐たれし時の事をいい伝えれども、この朝臣蝦夷と戦いしはいまだ聞かざる所なり。さらば
崇神天皇の朝(臣?)大毗古命は高志国*1より、その子建沼川別命は東方より共に来り、蝦夷を治められし時(提要を併せ見るべし)京観(けいかん)*2の類に築かれしも知るべからず。この邊に義家朝臣の旧跡多く残れる(ゆえ)里民誤り伝えしにや。
大旱の時ここを掘れば雨降るという。

経塚

村北3町にあり。
高4尺・周6間。




余談。
八幡神社前にある由緒書きに相殿神の記載があります。
箱根、羽黒、羽山、白山、天神、山神、宗像、伊豆、三島、若宮八幡、感応、石神、権現、伊勢、稲荷。
摂社・若宮八幡宮は相殿に、この地区にあった諏訪神社・宗像神社も相殿神として奉られたのではないかと思われます。
由緒書きにない山王神社(≒日吉神社)は…どこでしょう?
最終更新:2025年06月25日 20:12

*1 高志国:古代の北陸地方一帯

*2 古代中国において戦争で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し塚を作り、戦勝の記念碑とする風習