この村は本組の地に続かず永井野組諸村の中に住す。昔葦名の家臣松本氏世々住し彼が郎等どもの居りし所故屋敷村と名くという。
府城の西南に当り行程3里6町。
家数7軒、東西1町34間・南北55間。
また2町30間余申酉(西南西~西の間)の方に1区あり。
家数3軒、東西1町54間・南北35間、新屋敷という。
共に四方田圃なり。
端村
天神堂
本村より3町余南にあり。
家数10軒、東西2町52間・南北42間。
四方田圃なり。
山川
赤沢川
寺院
正法寺
村より30間余未申(南西)の方にあり。
音照山と號す。縁起に拠るに應暦2年己未慶照という僧の開基なりとぞ。按ずるに、應暦の年号なければ文字誤あるべし。
舊事雑考には康暦元年の事とす(康暦元年:1379年)。
元和3年(1617年)玄照という密侶再興し、明暦3年(1657年)照賢という僧住せしより天台宗冑組仁王村仁王寺の門徒となる。
旧はここより東北の方にありしという。何の頃移せしにか詳ならず。
本尊観音客殿に安ず。
古蹟
船岡館跡
村より1町余申(西南西)の方にあり。
四面に土居隍の形存し1町四方計あり。外郭の迹北に廻れり。これは杉内村属す。
この館は松本氏代々の居所なり。その先は信州の松本氏にて、葦名家の臣たりしより、禮遇他に異に四天宿老の第一と称せり。
塔寺村八幡宮長帳に、天将(古文書往々天正を天将に作る者あり)3年(1575年)松本図書助
安積郡にて討死せし由見ゆ。
その子太郎同12年(1584年)16歳にて
聊恨の仔細ありて葦名家を乱さんと企て、その頃男色の知音なる河沼郡笈川の地頭栗村下総を語い、葦名盛隆城東羽黒山にて舞楽の遊覧ありし隙を伺い、松本と栗村と800余人を引卒し黒川の館へ討入りしが、事成らずしてそれに討るという。
最終更新:2020年04月13日 20:19