府城の西南に当り行程5里24町。
家居16軒、東西50間・南北1町10間、金山郷に通る道に住す。
東に宮川流れ西は山に連る。南北は菜圃なり。
山川
博士山
博士峠
村より申(西南西)の方1里余、金山郷に通る道にあり。
登ること30町計、
野尻組小野川村と峯を界ふ。
林木路を
蔽い
霖雨の折は泥土深く路
頗る悪し。
宮川
村東にあり。
中在家村の境内より来り博士川を受け、北に流るること10町
牧内村の界に入る。
博士川
源は博士山天狗岩の邊より流れ出、山間を2里計流れ、村南にて宮川に入る。広4間。
滝
村より1里10町未申(南西)の方にあり。
高10丈。
博士川の上流これに注ぐ。
土人旱歳に雨を祈る。
関梁
橋
村より未(南南西)の方3町余。
隣村の通路、博士川に架す。
長8間、土橋なり。
神社
山神社
村南30間、山麓にあり。
鳥居あり。
仁王村高橋相模が司なり。
廃村。下谷地村は新宮川ダムの辺りにありました。
古地図
※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正測図/同8年鉄道補入)
以前は博士山方面に向かう林用軌道があったようです
(町史より)
大正五年若松営林署では、博士国有林伐採のため、博士峠南方4kmの見沢の分岐点より、桑沢谷を通り下谷ヶ地まで博士山林用軌道を造り、レールを引きトロッコを走らせた。
下りは、五両連結で下谷ヶ地まで一日一回、一人の運転手が梶棒を握って一気に下谷ヶ地まで下ったという。また、帰路はもちろん、馬にトロッコを引かせて引き上げた。こうして木材や木炭を搬出したが、この軌道は昭和の初期まで続けられた。
参照:
博士山林道 - 関東森林管理局「福島の森林鉄道WEB史料室」より
1.博士山林道の概要
名称:博士山林道(はかせやまりんどう)
運用者:若松営林署
延長:11,150m
森林鉄道としての存続期間(大正9年~昭和16年頃)
所在市町村:大芦村(昭和2年に昭和村に改称)、尾岐村(現在の会津美里町)
大山神社と地蔵堂
(町史より)
大山神社は、下谷ヶ地の鎮守で祭神は大山祇命である。むらの南西にある山麓にうつ蒼とした杉林を背景に東向きに祀られていた。参道は急勾配の石段で、下段三二段を登ると博士川から取水した用水路が迂廻して流れる御手洗に石橋が架かり、さらに上段二三段の石段が続いていて、石段の両側に切石の縁石がついていた。参道入口の両側に明和六年(1769)に寄進された石灯籠があった。境内にカツラの大木があり、御神木とされていた。
また有名な地蔵堂があった。五間四面の唐破風造りの豪華な建築物で、ヒノキ、ケヤキを大量に使用し、虹梁には、見事な龍の彫り物があり、さらに円柱の上部には唐獅子の彫刻が施されていた。昭和四十一年の『会津高田町誌』には承応四年(1655)には冑の棟梁金田某の建立という文献があるが、安政三年(1856)との記録もあり、その間に200年の差もあるので再建かとも考えられる。また地蔵堂の入り口右側には三面六臂で場上に座し、しかも蓮台に乗っている珍しい馬頭観音がある。これは博士峠の途中にあったものをこの位置に移動したものである。台座に「万延元年(1860)建立、施主目黒佐蔵、世話人小原瀧右衛門・内田幸蔵・公家龍之介・目黒茂兵衛」と刻まれている。右の地蔵堂と馬頭観音菩薩は、ダム建設に伴って、河東町の「会津村」に移転したが、神社の建物は撤去し御神体は博士地蔵堂内に仮安置した。
会津美里湖
(水土里ネット会津宮川より)
新宮川ダム湖名「会津美里湖」 新宮川ダムによって形成される湖の名称は、広く関係町村の住民の方々からの公募により、「会津美里(あいづみさと)湖」と命名されました。
これは、新宮川ダムの所在する町のこと、また、ダムの水により地域が水に育まれた美しいふる里にすることを祈念し、数多くの方から寄せられた案をもとに決定しました。新宮川ダムとその湖が広く地域の方に親しまれ、大切に活用され地域に大いに貢献することを期待しております。
最終更新:2025年08月24日 19:31