大沼郡東尾岐組東尾岐村

陸奥国 大沼郡 東尾岐組 東尾岐(ひかしおまた)
大日本地誌大系第33巻 35コマ目

村南に神籠嶽あり北に引きたる峯わかれて3となり、東の谷を尾岐川流れ西の谷を小屋川流る。
20余区の民居・田圃川に傍て2ヶ所に開け、共に北は広くその奥は漸々に狭し。中にも東の谷は田畠多く奥に至れば谷2となり、その間にも民居あり。因て近里に勝れて境内広く1組の地面半はこの村に属す。西端の山は冑組諸村と界ふ。

府城の西南に当り行程4里。
家数8軒、東西1町23間・南北3町23間、散居す。
東は川に傍ひ西は山に倚り南北田圃(たんぼ)なり。

村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東5町計無量村の山界に至る。その村は丑(北北東)に当り34町。
西20町計冑組魚淵村に界ひ宮川を限りとす。
南2里20町計会津郡楢原組大内村の山界に至る。その村まで2里19町。
北28町冑組尾岐窪村の界に至る。その村まで30町。
また
戌(西北西)の方10町計大室村の山界に至る。その村まで24町。

旧端村大平の南7町50間に小屋という端村あり。今はなし。

小名

(みや)

本村の東2町にあり。
家数2軒、東西19間・南北32間、四方田圃なり。

地頭方(ちとうかた)

本村の南3町にあり。
家数9軒、東西48間・南北1町。
三方田圃にて西は山に倚り東は川に近し。
何の頃にか地頭の宅地ありし(ゆえ)この名ありとぞ。

馬場(はは)

昔何の頃にかこの地に馬場あり。因てこの名ありという。
地頭方の南30間にあり。
東西2区に住し、その間50間余を隔つ。
西は家数2軒、東西40間・南北48間。西は山に近く四方田圃なり。
東は家数6軒、東西48間・南北57間。東南は川に傍ひ西北は田圃なり。

水沢(みつさは)

馬場より未(南南西)の方2町30間にあり。
家数6軒、東西38間・南北2町。
東は川に傍ひ西は山に倚り南北に田圃あり。

戦場(たたかひは)

馬場の南7町10間余にあり。
家数23軒、東西48町・南北5町25間、散居す。
東は川に傍ひ西南は山に倚り北は田畠なり。

勝負沢(しようふさは)

戦場より辰巳(南東)の方5町40間にあり。
家数10軒、東西2町31間・南北38間。
東西北は山(めぐ)り西に田圃あり。

大神沢(おほかみさは)

本村の北3町にあり。
家数4軒、東西1町31間・南北1町30間、散居す。
西は山を負い三方田圃なり。
また東1町を隔て家居1軒あり。

(たい)

大神沢の北4町にあり。
家数6軒、東西38間・南北3町5間。
西は山に連なり三方田圃なり。

遅沢(おそさは)

台の北3町にあり。
家数17軒、東西1町5間・南北3町24間。
西は山に倚り三方田畠なり。
また丑寅(北東)の方5町隔て家居1軒あり。

関根(せきね)

遅沢より丑寅(北東)の方6町にあり。
家数3軒、東西30間・南北1町10間。
東は山に倚り西は尾岐川に臨み南北田圃なり。
何の頃にかこの地に関所ありしといい伝う。

端村

茗荷平(めうかたひら)

小名水沢より未(南南西)の方25町にあり。
家数9軒、東西1町・南北1町。
また巳(南南東)の方7町20間を隔て1区あり。中屋敷という。
家数3軒、東西48間・南北48間。
共に山間に住し南北に菜圃(さいほ)あり。

檜皮(ひはた)

中屋敷の南6町にあり。
南北2区に住しその間5町40間を隔つ。
北を下檜皮(しもひはた)という。家数3軒、東西26間・南北1町。
南を入檜皮(いりひはた)という。家数3軒、東西1町20間・南北1町10間。
四方に山(めぐ)り南は殊に高山なり。その間に菜圃を開く。
また下檜皮の西30間に家居1軒あり。

唯能(ゆいのう)

小名勝負沢より辰巳(南東)の方10町30間にあり。
家数10軒、東西1町37間・南北40間、山間に住す。
東西北に菜圃あり。

清水(しみつ)

小名遅沢の西、山を隔て10町30間にあり。
家数3軒、東西44間・南北18間余。
山中に住し北は山に倚り三方に田圃あり。

西沢(にしのさは)

小名水沢より申(西南西)の方、山を隔て14町20間にあり。
家数9軒、東西42間・南北12間。
東は川に傍ひ西は山に近し。南北に菜圃あり、
また北14町50間に家居1軒あり。源太谷(けんたや)という。

大平(おほたひら)

西沢の南20町30間余にあり。
家数9軒、東西27間・南北2町40間。
東南は川に臨み西北に菜圃あり。
また北11町を隔て1区あり。中臼(なかうす)という。
家数5軒、東西18間・南北36間。
東は山に倚り西は川に近し。南北菜圃なり。

木地小屋

東入(ひかしいり)

大平の南17町40間、重山の中にあり。
家数14軒、東西42間・南北45間余。
寶暦中(1751年~1764年)野尻組小野村*1の境内よりこの地に来るという。

山川

神籠嶽(かろうたけ)

村南2里にあり(本郡の条下に詳なり)。

虚空蔵岩(こくうさういわ)

小名台の東2町山の中腹にあり。
何の頃にかこの山上に虚空蔵堂ありし(ゆえ)この名ありとぞ。

稲荷森(いなりもり)

端村唯能より辰巳(南東)の方1町にあり。
周5町計。数株の喬木林をなせり。
土人伝えて、那須野の殺生石欠てこの地に飛来るという。因て昔より往来する者なしとぞ。
側より(うかが)うに巨石往々樹間にあり。

坂2

一は端村檜皮の南にあり。頂まで23町。檜皮峠という。
一は唯能の南にあり。頂まで28町余。
共に大内村に行く道なり。

小名宮の南路の傍にあり。
高3尺計の野面石なり。
土人石神と呼ぶ。その故を詳にせず。

尾岐川

水源3あり。共に神籠嶽より発す。
一は唯能の奥入大沢(いりおほさわ)より出、唯能川という。西北に流るること1里27町戦場川に入る。
一は戦場川という。小名戦場の奥より諸渓合して流出、北に流るること1里20町計、村南にて唯能川に合しまた北に流るること10町計、檜皮川に合す。
一は端村檜皮の奥大神籠という所より出、檜皮川という。北に流るること1里20町計、小名馬場の東にて戦場川を得て尾岐川となり、北に流るること1里6町尾岐窪村の界に入る。広5間余。

小屋川

源を神籠嶽の北三沢(みさは)より発し、北に流るること2里20町冑組魚淵村の界にて宮川に入る。広5間計。

関梁

橋2

一は大神沢にあり。所坂橋(ところさかはし)といい尾岐川に架す。長6間・幅6尺。
一は端村大平の南8町40間にあり。綱取橋(つなとりはし)という。長7間・幅6尺、小屋川に架る。木地小屋東入へ通る路なり。

水利

堰2

一を向田堰という。小名関根の北にて尾岐川を引き田地の養水となり尾岐窪村の方に注ぐ(尾岐窪村にては東堰という)。
一を龍門寺堰という。関根の西にて尾岐川を引き田地を潤し、下流尾岐窪村の田地に(そそ)ぐ。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
村より未申(南西)の方50間山の中腹にあり。
鳥居あり。寺入村佐藤日向これを司る。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
勧請 不明
村より50間戌亥(北西)の方山麓にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

朝立神社

祭神 不明
鎮座 不明
小名宮の南1町30間にあり。
祭神詳ならず。
神像2軀あり。長各1尺5寸。
鎮座の年代詳ならず。
往昔は当社に若干の社料ありて神職も数員ありしに、何の頃よりか衰敗して今に至るという。
  • 随神門 2間に間半。
  • 石鳥居 両柱の間8尺。
  • 本社  6尺に5尺、東向。
  • 幣殿  2間に1間半。
  • 拝殿  4間半に2間。

別当 常法院

本山派の修験なり。
華蔵院明敬という者より11世を経て現住主馬丸に至る。

日光神社

祭神 二荒山神 下これに倣う
相殿 山神 2座
   熊野宮
   日光神
勧請 不明
小名地頭方の西1町10間余にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

天王神社

祭神 天王神?
鎮座 不明
小名馬場より未申(南西)の方50間余山中にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

山神社

祭神 山神?
勧請 不明
小名戦場の南30間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

御稷神社

祭神 御稷神?
鎮座 不明
戦場より巳午(南南東~南の間)の方40間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

舩越神社

祭神 不明
鎮座 不明
戦場の西40間山麓にあり。
祭神及び鎮座の年月詳ならず。
鳥居あり。村民の持なり。

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
小名勝負沢の北1町20間山腰にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

大神社

祭神 大己貴命
相殿 山神
   幸神
鎮座 不明
小名大神沢の戌亥(北西)の方1町にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
小名台の西1町40間山麓にあり。
鳥居あり。
鰐口1口を懸く。径3寸『應永廿二二年十一月十六日敬白』と彫付あり(応永24年:1417年)。
村民の持なり。

伊豆神社

祭神 伊豆神?
鎮座 不明
台の西40間にあり。
村民の持なり。

熱田神社

祭神 天照大神の尊霊・素戔嗚尊
勧請 不明
小名遅沢の東2町山の半腹にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
遅沢より1町未申(南西)の方にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
勧請 不明
小名関根の東1町山腰にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
端村茗荷平の西1町20間にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
茗荷平の北6町30間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
勧請 不明
端村檜皮より戌亥(北西)の方1町40間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

唯能神社

祭神 不明
勧請 不明
端村唯能の北50間にあり。
祭神及び鎮座の年月詳ならず。
鳥居あり。村民の持なり。

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
端村西沢の西40間にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

日光神社

祭神 二荒山神
勧請 不明
西沢の小名源太谷の東30間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
勧請 不明
西沢の西40間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
勧請 不明
木地小屋東入の北8町40間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
この地東西3間計・南北15間計の岡にて、東南北に小屋川の清流(めぐ)り林木繁陰して幽邃の勝地なり。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
大平の西20間余にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
草創 不明
大平の小名中臼にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

三嶋神社

祭神 三嶋神?
草創 不明
端村清水の北にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。

寺院

長泉寺

小名遅沢の村中にあり。
草創の始詳ならず。山號を遅澤山と称す。
尾岐窪村龍門寺の末山曹洞宗なり。
本尊虚空蔵客殿に安ず。

観音堂

端村大平より30間余午未(南~南南西の間)の方にあり。
草創の初詳ならず。
正観音の像を安ず。長1尺6寸。
この堂旧は大平の北3町壇原(たんのはら)という所にあり。寛永14年(1637年)今の地に移すとう。
村民の持なり。

薬師堂

小名大神沢の西40間山腰にあり。
創建の始知らず。
十二神将の像あり。
村民の持なり。

墳墓

五輪2基

小名関根より戌亥(北西)の方2町山麓にあり。
共に高7尺余。梵文の彫付あり。その制近代のものとは見えず。
如何なるものの墓にか、土人ただ大五輪と称す。

古蹟

陣屋敷

小名戦場の南30町余山奥にて、東西1町40間・南北30間余の地をいう。
この地古戦場といい伝ふれども、何れの時の何人の戦しということを伝えず。
またここより北10町計を隔て遅沢(おそのさは)とい所に鉄滓あり。明應元年(1492年)長嶺越中某(或は佐藤何某ともいう)という者、鉄華表を鑄て高田村伊佐須美大明神へ献せし迹といい伝う。

館跡4

一は小名水沢の西12町山上にあり。東西12間・南北10間。東に並で的場という所あり。東西1町・南北8間。
またこの邊りを城戸沢という。今は木立茂りて館の形とも見えず。何の頃にか長峯越中某という者住せしという。
一は小名勝負沢の東7町にあり。中館(なかやかた)という。東西30間・南北15間。何の頃にか佐藤大蔵丞吉近という者住すという。
一は入檜皮より戌亥の方2町にあり。東西1町20間・南北1町。何の頃にか河島右京某という者住すという。今は畠となれり。
一は小名戦場の西3町にあり。20間四方。山中にて木立茂れり。何の頃にか川島伊予某という者住せしという。

醫恩寺迹

小名大神沢にあり。
天台宗冑組仁王村仁王寺の末山にて山號を浄壺山といいしが、寛文9年故ありて廃す。

長福寺迹

小名地頭方の西にあり。
宗旨・山號・廃せる年月詳ならず。

観音寺迹

端村大平より丑寅(北東)の方4町にあり。
山號・宗旨及び何の頃廃せしということを伝えず。
その地今なお林木茂りて梵字のありしあと著し。




朝立神社について

高田町史には祭神は伊弉諾・伊弉冉の2柱ではないかと記載されています。
朝立神社は1社のみである。朝立という名称は、「朝立宮縁起」(町史3 659)によると、2柱の神が朝立山に降臨し止ったことに由来するらしい。「新風土記」には、「祭神詳ならず、神像2軀あり、各1尺5寸」とあるのは、2柱の神の事であろう。この2柱の神は、伊弉諾尊・伊弉冉尊らしい。(町史5 783)。

結能峠の航空機墜落事故慰霊碑

昭和29年(1954年)9月30日、羽田発の青木航空C18機が結能峠付近の山中に墜落。
山中により捜索は難航し、発見されたのは半月後の10月9日、ヤマブトウ狩りの少年によるものでした。
事故三回忌にあたり現地に慰霊碑を建てました。林道入口には案内柱があります。
最終更新:2025年03月07日 21:47

*1 小野川村の事か?