昔はここより丑寅の方2町計に住せり。後水災を患てここに移すという。
この地
上宇内村に界を接する所にて、民居多くは上宇内村の境内にあり。
府城の西北に当り行程3里29町。
家数38軒(この内28軒は上宇内村の境内なり)、東西2町間・南北1町50間。
四方田圃なり。
東6町
西青津村に界ひ宮川を限りとす。その村まで18町40間。
西北、共に村中にて
上宇内村に界ふ。その村は戌(西北西)に当り3町30間。
南1町26間
笊籬屋敷村の界に至る。その村まで3町40間。
山川
宮川
倉廩
米倉
村中にあり。本組の米を納む
寺院
大泉寺
村中にあり。
海嶽山と號す。
曹洞宗慶長元年(1596年)長鷟という僧草創して永徳寺と称す。後天寧村天寧寺合下雲朔という僧住して、その師嶽應を請て開山とし大泉寺と改む。即天寧寺の末山なり。
本尊釈迦客殿に安ず。
古蹟
火消壇
村東2町30間、路傍にあり。
高3尺・周4間。
夜中燈を堤くるものここを通るに火を消すことあり。故に名くという。その謂れを詳にせず。
大口大領と大口(会津坂下町史の伝承の項より)
延暦17年(798年)に会津黒川住大口大領という者が岐阜の華厳寺に十一面観音を寄進している(会津高田町誌参照)。大口大領と大口の関係は詳かでないが、徳一の会津に入る9年前のことで高寺仏教との関係から興味ある資料となる。
古地図
最終更新:2025年06月14日 21:59