府城の西北に当り行程2里12町。
南北2区に住しその間2町20間余を隔つ。
南を上細工名という。東西40間・南北1町12間、家数7軒。
北を下細工名という。東西38間・南北1町40間、家数16軒。村中に越後街道あり。
共に四方田圃にて東は鶴沼川に近し。
東14間・南47間、共に
塚原村の界に至る。その村は南に当り4町20間余。
西3町30間
下茅津村の界に至る。その村まで9町40間。
北7町7間
青津組村田村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り7町余。
また
戌(西北西)の方7間
海老沢村の界に至る。その村まで8町10間余。
山川
鶴沼川(大川)
俗に大川という。
下細工名より5町寅(東北東)の方にあり。
塚原村の境内より来り、7町10間余北に流れ
村田村の境内に入る。
水利
富川堰
寺院
妙福寺
上細工名の村中にあり。
山號を本光山という。開基の年月を詳にせず。
法華宗府下大町
實成寺の末寺なり。
地蔵堂
妙福寺の東にあり。
3間半四面、南向き。
地蔵木佛、長3尺3寸5分。座像なり。運慶作と言伝う。
も村北8町計にあり。慶長19年(1614年)閏2月29日この処に遷れり。
相伝ふ。嘉元の頃(1303年~1306年)實成寺の開山日尊出羽国に趣んとて耶麻郡熊倉村に至りし時、何くともなく小僧1人来て日尊に向い「吾村老若疫に染て病苦に堪ず。願わくは師の法力を假てその苦を濟わん」という。日尊やがてその請に応じければ小僧日尊が行李を肩にし1庵の前に至り禮謝の體をなし忽そのゆく所をしらず。日尊怪て門に入り庵主を見てこれを問う。庵主いい「吾庵に小僧なし。ただ地蔵の霊像のみあり。彼化身なるも測難」とて共に地蔵堂に詣見れば、果たして日尊が行李を肩にせり。日尊感涙を催し庵主の請に従い木像の背に題目を書し、また石面に妙法蓮華経の5字を題し攘災の法を修しければ、1村の老若忽その病苦を免れしと(今も堂前に日尊が書しという題目を彫ける石碑あり)。
またこの像天文5年(1536年)の洪水にに漂流して越後国に至りしに、童子多く集まり手車にのせ村送にしてこの村まで送還せしとぞ。その時の童謡もこの辺の兒戯に残れり。
古蹟
館跡
上細工名の村中にあり。
東西36間・南北24間。
葦名盛興の臣谷津土佐(諱を伝えず)という者住し、その後皆川次郎吉村という者住せしという。
最終更新:2025年02月02日 00:02