河沼郡坂下組細工名村

陸奥国 河沼郡 坂下組 細工名(さいくな)
大日本地誌大系第33巻 121コマ目

府城の西北に当り行程2里12町。
南北2区に住しその間2町20間余を隔つ。
南を上細工名という。東西40間・南北1町12間、家数7軒。
北を下細工名という。東西38間・南北1町40間、家数16軒。村中に越後街道あり。
共に四方田圃(たんぼ)にて東は鶴沼川に近し。

東14間・南47間、共に塚原村の界に至る。その村は南に当り4町20間余。
西3町30間下茅津村の界に至る。その村まで9町40間。
北7町7間青津組村田村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り7町余。
また
戌(西北西)の方7間海老沢村の界に至る。その村まで8町10間余。

山川

鶴沼川(つるぬまかわ)大川(おほかわ)

俗に大川という。
下細工名より5町寅(東北東)の方にあり。
塚原村の境内より来り、7町10間余北に流れ村田村の境内に入る。

水利

富川堰

塚原村の方より来り田地に(そそ)海老沢村の方に注ぐ。

寺院

妙福寺

上細工名の村中にあり。
山號を本光山という。開基の年月を詳にせず。
法華宗府下大町實成寺の末寺なり。

地蔵堂

妙福寺の東にあり。
3間半四面、南向き。
地蔵木佛、長3尺3寸5分。座像なり。運慶作と言伝う。
も村北8町計にあり。慶長19年(1614年)閏2月29日この処に遷れり。
相伝ふ。嘉元の頃(1303年~1306年)實成寺の開山日尊出羽国に趣んとて耶麻郡熊倉村に至りし時、何くともなく小僧1人来て日尊に向い「吾村老若疫に染て病苦に堪ず。願わくは師の法力を假てその苦を(すく)わん」という。日尊やがてその請に応じければ小僧日尊が行李(こうり)を肩にし1庵の前に至り禮謝の體をなし(たちまち)そのゆく所をしらず。日尊怪て門に入り庵主を見てこれを問う。庵主いい「吾庵に小僧なし。ただ地蔵の霊像のみあり。彼化身なるも測難(しりがたし)」とて共に地蔵堂に詣見れば、果たして日尊が行李を肩にせり。日尊感涙を催し庵主の請に従い木像の背に題目を書し、また石面に妙法蓮華経の5字を題し攘災(じょうさい)の法を修しければ、1村の老若忽その病苦を免れしと(今も堂前に日尊が書しという題目を彫ける石碑あり)。
またこの像天文5年(1536年)の洪水*1にに漂流して越後国に至りしに、童子多く集まり手車にのせ村送にしてこの村まで送還せしとぞ。その時の童謡もこの辺の兒戯(じぎ)に残れり。

古蹟

館跡

上細工名の村中にあり。
東西36間・南北24間。
葦名盛興の臣谷津土佐(諱を伝えず)という者住し、その後皆川次郎吉村という者住せしという。


最終更新:2025年02月02日 00:02

*1 白髭の水