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河沼郡坂下組窪倉村

陸奥国 河沼郡 坂下組 窪倉(くほくら)
大日本地誌大系第33巻 125コマ目

府城の西北に当り行程4里23町。
家数20軒(この中の4軒窪村の境内に住す)、東西2町・南北1町52間、四方田圃(たんぼ)にて西は只見川に近し。

東は窪村船渡村田圃(たんぼ)相雑る。
西4町10間野沢組洲走村の界ひ只見川を限りとす。
南は村際にて船渡村に界ふ。その村まで10町。
北6町48間東羽賀村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り8町。
また
寅(東北東)の方55間田中村の界に至る。その村まで2町20間。
辰巳(南東)の方30間窪村の界に至る。その村まで7町50間。

山川

只見川

村西4町にあり。
窪村の境内より来り、4町計北に流れ東羽賀村の境内に入る。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 伊勢宮
鎮座 不明
村西にあり。
鳥居あり。塔寺村兼子大和が司なり。

寺院

安樂寺

稲荷社の北にあり。
開基伝わらず。山號を歸敬山という。
浄土宗五之町高巖寺の末山なり。
本尊弥陀客殿に安ず。

古蹟

館跡

村より未(南南西)の方2町計にあり。
何れの頃にか渡部監物某という者住せしという。
今は次第に崩れ川となる。


参照・補足

  • 高寺山が隆盛になるにつれていろいろな貢物や食料等日用品の補給地として窪・大原・田中などの諸村と共に次第に栄えた。
  • 城重則が会津進出に成功した永延二年(988)会津八館のうち窪に久山城を築き、その支配下に渡部監物なる者が窪倉の地に北城を築いたので、戸数も増加して四十八竈になったと語りつがれている。

外部リンク等



窪倉地区の社寺

法人番号公表サイトでは下記の登録がある
法人番号 商号又は名称 所在地
7380005008985 安楽寺 河沼郡会津坂下町大字高寺字窪倉甲283番地
4380005008757 稲荷神社 河沼郡会津坂下町大字高寺字窪倉271番地

町史より)
6.神社
稲荷神社 祭神:宇迦御魂神 祭日:旧九月二十五日 鎮守神
伊勢宮 祭日:旧九月二十五日 稲荷社と相殿
雷神 稲荷神社境内に祭る
7.寺院
帰敬山安楽寺 浄土宗 本尊:阿弥陀如来立像 像高:二十三糎
観音堂 祭日:旧三月十八日 今は安楽寺内に祀る。寺伝:観音菩薩坐像 像高二十一糎

伝承

町史より)
北城館
窪の久山城の出城として窪倉の村西只見川沿いにあったが、洪水にて一部決壊して川になっている。
柵 東西二十六間 南北十八間 生江国長ノ二男窪倉文左衛門能長築キ住ス
『会津鑑』
猪苗代の移民
大同年間(806年~810年)猪苗代湖陥没の際、罹災者の一部が下窪倉に移住した。後に度々の洪水で家屋敷共川欠となり現在地に移動した。
宮の餅食いくらべ
この年中行事は宮田と称する神田にもち稲を栽培して、旧九月二十四日に当前の家に全戸が集い、一日五回餅をつき鎮守様に供えた後その年の出来事など話しながら食い競べをする。
番持石
若者の力くらべで、重さ百(キログラム)、番持石を担って力くらべをして身体の鍛錬を行った。
食い競べや番持石は昭和十八年頃まで継続していた。 
※昭和十八年(1943年)は終戦の二年前
最終更新:2025年11月21日 22:20