河沼郡坂下組窪村

陸奥国 河沼郡 坂下組 (くほ)
大日本地誌大系第33巻 125コマ目

府城の西北に当り行程4里15町。
家数25軒、東西1町22間・南北1町21間。
四方田圃(たんぼ)にて東は山に倚り西に只見川あり。

東29町青津組見明村の山に界ふ。
西12町野沢組洲走村に界ひ只見川を限りとす。
南は村際にて船渡村に界ふ。その村は未(南南西)に当り3町。
北9町14間田中村の界に至る。その村まで10町40間余。
また
丑寅(北東)の方14町45間大原村の界に至る。その村まで10町20間余。

山川

只見川

村西12町にあり。
船渡村の境内より来り、1町計北に流れ窪倉村の境内に入る。

水利

村より10町計丑寅(北東)の方にあり。
周630間。
本村及び田中村・窪倉村の養水とす。
中丸堤(なかまるつつみ)という。

神社

白山神社

祭神 白山神?
相殿 蔵王神 地主神なり
   伊勢宮
   熊野宮
   諏訪神
   稲荷神
   十二所神
草創 不明
村西4町計にあり。
鳥居あり。塔寺村兼子大和が司なり。

古蹟

高寺跡(たかてらあと)

村より15町寅(東北東)の方山上にあり。
山の高凡25丈計。麓より屈曲して登り頂に至る。
この辺を昔高寺あしり遺跡といい伝う。

高寺は欽明天皇元年(539年)草創せしという。その時は佛経未東漸せざる以前なれば、如何なるものの開基せるにか詳ならず。
その後堂舎子院次第に繁栄して3000余宇に及びしが、寶亀6年(775年)兵燹(へいせん)に燒亡し遂に廃絶に及びしを、大同3年(808年)田村麿将軍空海が勧化に因てその遺趾に恵隆寺という寺を建立す。空海千手観音の立像ならび左右28部衆弥陀薬師を彫刻してこれを安置しまた自壽像を作てこの寺におきけるが、何れの頃にか山麓金塔の辺に遷れりという(牛沢組塔寺村の条下と併せ見るべし)。
実も当寺は左計の巨刹なりしと見えて、本組のみならず青津組・牛沢組の諸村にに亘りその遺跡多くこの寺より移せしという。古佛往々にあり。宇内村はその院宇の内にて見明村(以上青津組)は寺門あり。塔寺村は金塔ありし所なりといえば、後に峻嶺を負い院宇多く東麓に烈布しその境内(はなは)だ広かりしと覚ゆ。今は寺はなくてただ戒壇・護摩壇・経塚の跡のみこの地に残れり。その上に松樹生茂れども土人その枝葉を切採ることをせず。また女人ここに登れば雨ふると言い伝う。
また村より3町丑(北北東)の方山の西麓に高2間計の壇あり。その辺より多く佛具を掘出せしことあり。
また村北にも高2間計・周70間計の壇あり。四方に隍めぐり上に「犬かし」の大樹あり。