この地もとは湯田沢とて天正中(1573年~1593年)磨上の役に富田将軍監先陣に備えし処なり。その後民居を構えて湯達沢新田村と称す。
府城の東北に当り行程4里。
家数2軒、東西35間・南北15間、
磐梯山の西南の麓に住す。
村際に二本松街道あり。
東19町53間
猪苗代城下の原野に界ふ。
西2町48間
土田新田村の界に至る。その村は未(南南西)に当り5町。
南3町4間
行津村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り20町20間。
北20町20間
磐梯山の腰に至る。
古蹟
槍掛松
村の戌亥(北西)の方3町にあり。
天正中(1573年~1593年)磨上の戦に伊達政宗槍を懸しとてこの名あり。
また丑寅(北東)の方に1堆の塚あり。討死の者を埋めし処という。
旧家
佐賀牛右衛門
その家系に拠るに、先祖は佐賀美濃守とて肥前国佐賀に住すという。
その後裔兵部大輔という者下野国烏山に住し、朝清軒と號し上杉謙信に仕ふとぞ。
朝清軒が子喜七郎浪人して会津に来り、蒲生秀行に事え高石(今の
小荒井組高吉村これなり)・
半在家(五目組に属す)両村200石の地を領す。
それより
河沼郡北高野村に遷り、慶長16年(1611年)この地に遷り新田を開き、その子孫相続いて今に至る。
今の牛右衛門は喜七郎が7世の孫なり。
古文書10通を蔵む。先祖の履歴その文に稍見ゆ。
左に録す(※略)
古地図
※地理院地図(明治41年測図/昭和6年要部修正測図)
翁島駅の横の道を北上し、県道7号猪苗代塩川線を越え、旧二本松街道(===の線)に突き当たるまで直進した所が湯達沢地区かと
最終更新:2025年07月26日 20:47