耶麻郡川西組湯達沢新田村

陸奥国 耶麻郡 川西組 湯達沢新田(ゆたさはしんでん)
大日本地誌大系第32巻 33コマ目

この地もとは湯田沢とて天正中(1573年~1593年)磨上の役に富田将軍監先陣に備えし処なり。その後民居を構えて湯達沢新田村と称す。

府城の東北に当り行程4里。
家数2軒、東西35間・南北15間。
磐梯山の西南の麓に住す。
村際に二本松街道あり。

東19町53間猪苗代城下の原野に界ふ。
西2町48間土田新田村の界に至る。その村は未(南南西)に当り5町。
南3町4間行津村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り20町20間。
北20町20間磐梯山の腰に至る。

古蹟

槍掛松

村の戌亥(北西)の方3町にあり。
天正中(1573年~1593年)磨上の戦に伊達政宗槍を懸しとてこの名あり。
また丑寅(北東)の方に1堆の塚あり。討死の者を埋めし処という。

旧家

佐賀牛右衛門

その家系に拠るに、先祖は佐賀美濃守とて肥前国佐賀に住すという。その後裔兵部大輔という者下野国烏山に住し、朝清軒と號し上杉謙信に仕ふとぞ。朝清軒が子喜七郎浪人して会津に来り、蒲生秀行に事え高石(今の小荒井組高吉村これなり)・半在家(五目組に属す)両村200石の地を領す。それより河沼郡北高野村に遷り、慶長16年(1611年)この地に遷り新田を開きその子孫相続いて今に至る。今の牛右衛門は喜七郎が7世の孫なり。
古文書10通を蔵む。先祖の履歴その文に稍見ゆ。
左に録す(※略)




余談。
※地理院地図(明治41年測図/昭和6年修正)

旧二本松街道はどこを通っていたのか現在の地図からは読み取るのが難しいです。古い地図を見ると土田の村落の中を通り三忠碑の方へと通る路を確認する事ができます。
村北にある押立(おったて)温泉は安政3年(1856年)開業との事で、文化6年(1809年)に完成した新編風土記には載っていません。三忠碑も嘉永3年(1850年)に建立との事なのでこれも載っていません。
頭無(づなし)不動尊は明和9年(1773年)あたりの建立で野口英世の母・シカが参拝したとの伝承も残っています。由緒あるようですが、なぜか風土記に載っていません。

余談2。
この地区の南、県道7号猪苗代塩川線を挟んだ先に翁島駅があります。
駅前の広場に大山祓神社(おそらく大山神社の誤り)が鎮座していることから、元々ここは山の中で民家はあまり無かったんでしょうね。磐越西線の駅が出来てから徐々に開拓して今の街並みになったのではないでしょうか?

最終更新:2020年06月30日 13:25
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