府城の北に当り行程3里14町余。
家数29軒、東西1町51間・南北2町11間。
四方田圃なり。
東5町20間
三橋村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り9町余。
西2町2間
塩川村に界ひ大塩川を限りとす。その村は未申(南西)に当り5町30間余。
南7町43間
河沼郡笈川組浜崎村の界に至る。その村は未(南南西)に当り11町10間余。
北1町2間
上窪村の界に至る。その村まで2町余。
また寅(東北東)の方5町29間
竹屋村の界に至る。その村まで14町10間余。
山川
大塩川
村西にあり。
上窪村の方より来り、南に流るること14町10間
塩川村の界に入る。
広7間計。
境見川
上窪村の方より来り、村中を過ぎ凡15町20間余西南に流れ大塩川に注ぐ。
この川の傍に長3尺系の石佛あり。諸病を
患るもの夜半
爰に詣で祈願すれば霊験ありという。里人これを姥神といい、また大日ともいう。
関梁
橋2(3?)
一は村より6町余未申(南西)の方、大塩川に架す。幅1間半・長14間、隣村の通路なり。
一は村中にあり、一は村の未申(南西)の方にあり。共に幅7尺・長6間、境見川に架す。
水利
狐堰
竹屋村の方より来りこの村の田地に
漑ぎ下流境見川に入る。
神社
諏訪神社
村中にあり。
鳥居拝殿あり。北小路大久保播磨仮に司る。
旧家
鈴木市右衛門
先祖は七左衛門某とて加藤家に仕え160石余の地を領しこの村に住せり。
加藤家石見国に移りし時七左衛門も従て彼地に行きしが、仕を致してこの地に帰り、再び越後国村松に游び剣術手跡を師範しその身を終れり。その弟を七右衛門といいこの地に止まり肝煎となり、今の市右衛門まで数世肝煎を勤む。
家に文書3通を蔵む。その文如左(※略)。
余談。
耶麻郡塩川組上窪村の方にも少し記載しましたが、この辺りは河川工事により江戸時代とは川の流れが異なります。参考として新旧の地図を載せておきます。
※地理院地図(明治43年測図/昭和6年修正)
※地理院地図(現代)
3本ある川は、左から姥堂川、大塩川、境見川。
最終更新:2020年07月01日 20:26