昔村の西南より潮出流れて日橋川に入る。村名これに因る。
府城の北に当り行程3里4町余。
家数169軒、東西4町6間・南北6町46間。
無波は日橋川に傍ひ村中を大塩川流れ東西北は田圃なり。
古町・中町・新町・新丁という小名あり。
出羽国米沢に通る街道駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
府下よりここに継ぎ、ここより1里28町
熊倉組熊倉村駅に継ぐ。
村北に一里塚あり。
東32間余
下窪村に界ひ大塩川を限りとす。その村は寅(東北東)に当り5町30間余。
西3町39間
上下遠田両村の界に至る。上遠田村は酉に当り11町10間余、下遠田村は未(南南西)に当り11町余。
南は村際にて
河沼郡笈川組浜崎村に界ひ日橋川を限りとす。
北2町11間
別符村に界ひ姥堂川を限りとす。その村まで4町30間余。
また
亥子(北北西~北の間)の方14町21間余
新井田村の界に至る。その村まで21町10間余。
亥(北北西)の方16町5間余
小田付組新井田谷地村の界に至る。その村まで21町10間余。
戌亥(北西)の方13町24間
小荒井組第六天村の界に至る。その村まで15町40間余。
丑寅(北東)の方6町6間
上窪村の界に至る。その村まで7町50間余。
旧は9月馬市あり。今は廃しぬ。
毎年歳暮大の月は晦日、小の月は29日人多くこの村に集まり諸物を売買す。土人詰市と称す。
駅所となりしは慶長13年(1608年)の事なり。その時の文書を栗村平八という検断の家に蔵む。その文如左(※略)
端村
上江
本村より11町20間余亥(北北西)の方熱塩温泉に行く道の傍にあり。
家数16軒、東西1町56間・南北1町10間。
四方田圃なり。
この所昔栗村弾正清政が住せし館跡なりとぞ。今に東西北の三方には土居の形存す。
山川
日橋川(堂島川)
俗に堂島川という。
浜崎村の境内より来り、村南を西に流るること12町余、村の西南にて大塩川を受け
下遠田両村の方に注ぐ。
広30間計。
大塩川
下窪村の方より来り、村の東北にて姥堂川に合し、辰巳(南東)の方に斜めに流れ南に折れ西に転じ村中を過ぎ、凡て23町余流れ日橋川に入る。
広20間余。
姥堂川
新井田村の方より来り、端村上江の東を南に流れ東に折れ南に転じ、凡18町50間余流れ大塩川に合す。
広10間計。
琵琶沼
村西6町余にあり。
周10町余。
昔日橋川の湛えし跡なり。その形琵琶の如くなしりゆえ名くという。今は田を闢いてその形僅かにのこれり。
清水
村西にあり。
周10間計。
昔潮出て日橋川に入るというはこの清水の事なりとぞ。
土産
鋏
この村に丸屋藤右衛門とて数代の鋏工あり。その制造宜しとて求めるもの多し。
関梁
橋
一は村南日橋川に架す。幅2間・長25間5尺。中程に5尺に3間計の馬除あり。
一は村中大塩川に架す。幅23間。
共に勾欄あり。
倉廩
米倉5屋
村中に2屋、村に3屋あり。1屋は社倉なり。1屋は本組の米を納め、1屋は五目組の米を納め、2屋は大阪に運漕する米を納む。その続きに船小屋と番所あり。
本組及び五目・慶徳・小荒井・小田付・小沼、熊倉・河沼郡笈川・青津・牛沢・坂下11ヶ組より出す所の回米運送に苦みしに、貞享元年(1684年)本村の肝煎栗村権七という者請て、出羽国最上大石田より許多の人夫を雇来り川筋を普請し船路を開き、また大石田より船頭水主20余人を招き船乗を習わしめ、ここより日橋川を下し岩石急流の間に至れば漕を改めて駄し、凡数理を経て越後国新潟湊に至し大阪に達す。これより諸組運送の苦なく今にその利に頼る。
権七が子孫相続いて肝煎を勤め回米問屋を兼ね今に至る。
神社
荒神社
祭神 |
熊野三社と馬頭観音? |
相殿 |
天王神 |
|
駒形神 |
鎮座 |
? |
村中にあり。
縁起に、天喜年中(1053年〜1058年)源義家朝臣安部氏を伐れし時、祈願ありて熊野三社を
河沼郡熊野堂村(代田組)に建立し、その愛する所連銭葦毛の駒を献じて神馬とし駒形原の地に放牧す。後にこの馬天に升り空中に嘶聲あること7にち、遠近これを聞き奇異の思いをなせり。仍て馬頭観音と祭り熊野三社をもまたこの原に勧請し三寶荒神と崇祭す。
正保3年(1646年)この所に移すという(馬頭観音堂の条下と併せ見るべし)。
鳥居幣殿拝殿あり。
別当 北野院
本山派の修験なり。開山を良傳という。
現住慶順まで15世なり。
諏訪神社
村より4町亥(北北西)の方亥弥林という所にあり。
鳥居あり。北野院これを司る。
寺院
阿弥陀寺
荒神社の北にあり。
開基の僧を空閑という。
空閑は山州東山禅林教寺の門徒なり。天文5年(1536年)春当村に来て1寺を剏め浄土宗府下寺町本覺寺の末山となる。境内に潮の出る清水ありし故(今村西にあるものこれなり)山號を塩泉山という。天正年中(1573年~1593年)ここに館築きしとき寺を今の地に移せりという。
旧は境内に地蔵堂あり。今は廃して客殿に安置す。長3尺余、運慶作という。
客殿
8間半に6間、東向き。
本尊三尊弥陀。
また厨子入の弥陀を安置す。座像1寸8分、惠心作といい伝う。
鐘楼
客殿の右にあり。
鐘、径2尺1寸、『寛延二年施主深田文内栗村左平栗村數右衛門栗村彌右衛門』と彫付けあり(寛延2年:1749年)。
雲岫菴
鐘楼の東にあり。
5間に3間。
馬頭観音堂
端村上江の東3町余、駒形原にあり。
昔義家朝臣の献せられし神馬をこの原に秣かいしが、後嘶いて天に升り雲中に聲ある事7日なりしとぞ。仍て原を駒形原と名け馬頭観音と祭りこの村の鎮守とす。
舊事雑考に康平5年(1062年)9月19日、塩川鎮守馬頭観音開眼也とあり。
北野院これを司る。
墳墓
石塔1基。
端村上江より5町余寅(東北東)の方芝原にあり。
正面に栗村弾正清政と彫り碑陰文あり。左に出す(※略)
五輪1基
村西1町計、塚の上にあり。
高2尺余。
七宮下野憲勝が墓といい伝えれども文字を彫らず。
土人この所を「たまや」と唱ふ。
古塚
端村上江の寅(東北東)の方3町50間余にあり。
高5尺計。上に五輪あり。雲海という僧の墓なりとぞ。
雲海は何れの時の人ということを伝えねど、ならびなき大力のものにて世をのがれて上江に住す。
村端の堰に石橋あり。雲海ある夜戯れに彼橋をひき置たり時に年貢奉んとて数10人の百姓どもここに来り、俄に橋なければいかにせんとなお予せるを見ていて、渡してとらせんとて堰堀に跨り米屓せし馬の足を取て残りなく渡し終われりとぞ。今に夜半ここに詣で力を祈るに験ありといい伝う。
古蹟
館跡3
一は今の古町の地なり。葦名直盛の臣濱崎主馬某築く。柏木城と號す。長禄の頃(1457年~1460年)葦名の臣七宮下総憲勝(入道して自然齋と號す)その子栗村弾正左衛門尉憲俊住せり(後右近と改む)。天正17年伊達政宗三浦盛國が内応により
猪苗代城に入り府下を襲わんとす。憲俊葦名義廣に随い磨上原の戦いに討死せりという。
一は村西にあり。天正中(1573年~1593年)伊達の臣片倉小十郎築住せんと欲せしが、果たさずして長井に移るという。今は畠となり
舘内という名のみ残れり。
一は端村上江の地なり。栗村弾正清政居るという。
旧家
栗村平八
この村の検断なり。先祖は栗村弾正左衛門尉(後右近という)憲俊という。葦名の家臣にてこの村に住し、天正17年(1589年)6月磨上原において討死せり。
憲俊が子を弾正清政という。父に先て天正16年(1588年)病に罹て死せり。
清政が長子を四郎右衛門という。葦名家滅て民間に屏居し慶長年中(1596年~1615年)蒲生氏のときこの村の検断となり、また耶麻郡割本役というを兼しとてその時蒲生家より渡せる文書を持伝う。その文左に録す(※略)。
平八は四郎右衛門11代の孫なり。
文内
先祖は深田半左衛門親信とて加藤左馬助嘉明に仕う。慶長19年(1614年)大阪の役に戦死せり時に女子1人あり。またその妻懐妊なりしが月みちて男子生まれぬ。その後ゆかりに就いて母子3人近江国に住す。加藤氏の老臣盛岡主馬その孤寡なるを憐で、一族守岡名兵衛親保という者を半左衛門が娘にあわせ深田氏を名乗らせ加藤家に仕えしむ。寛永4年(1627年)加藤氏石州に移りし時大小の諸臣多く所々に沉淪せり。その時守岡主馬黄金許多を不栖に贈る。これより再仕官の望を絶ちここに留まり貨殖して世を渡り茶事を以て楽とす。後に半左衛門が実子半左衛門親倫近江国よりここに来りしかば、不栖家産を分与ふ。
今の文内美元は6世の孫という。
文書数通あり。左に載す(※略)。
追記。
コメント欄にてとんりすんがりさんより情報頂きました。詳しい解説がありましたのでそのまま引用させていただきます。
塩川の中心街(中町)は水利に目をつけた蒲生氏郷が故地日野から呼び寄せた近江商人が興した町で(現在の東邦銀行塩川支店にあった、会津藩本陣が近江屋だったり、近江商人〇〇代目とと掲げて営業しているお店が現在もあります)、彼らが日橋川の築堤工事で出来た湖を故郷を偲んで琵琶沼、琵琶阿湖と呼ぶようになったようです。御殿場公園や周辺の住宅地含め最大期で周囲一里ほどの湖だったようで(風土記の記述通り、だんだんと灌漑され縮小していったようです)、松平時代に藩主の避暑地として舟遊びや鷹狩りが行われ、御殿場と呼ばれるようになったようです。御殿場公園が整備されるまでは一帯は水田だったので(住宅地ができたのもここ二十年ほどです)、公園内の池は近年造成された無関係のもののようです。
追記2:五輪について
コメント欄にて情報頂きました。
栗村(七宮)憲勝の墓とされる五輪、「たまや」の場所がわかりました。風土記の記述と一致する五輪が手入れもされず佇んでおり、塚の目印となる立派な木も植えられていますが残念ながら枯れてしまっているとの事。
追記3:古塚について
コメント欄にてとんりすんがりさんより情報頂きました。
雲海という怪力僧の墓も風土記の記述通りの場所、田んぼの一角に現存しているそうです。残念ながら五輪塔は崩壊していますが、建立時には5尺位(約1.5m)の大きさはありそうとの事でした。
最終更新:2020年07月02日 14:37