耶麻郡小荒井組塚原村

陸奥国 耶麻郡 小荒井組 塚原(つかはら)
大日本地誌大系第32巻 99コマ目

府城の北に当り行程4里24町余。
家数77軒、東西3町40間・南北1町50間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東2町5間清治袋村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り3町余。
西1町36間太郎丸小荒井両村の界に至る。太郎丸村は未(南南西)に当り2町10間余、小荒井村は寅(東北東)に当り5町。
南7町高吉村の界に至る。その村まで9町50間余。
北2町10間小荒井村に界ふ。

土産

この村にて専ら漆器を塗ることを業とし四方に(ひさ)ぎ出す。近村にも生産とするものあれどもこの村最多く製し出すゆえ塚原椀と称す。

水利

遠田堰

小荒井村の方より来り田地の養水とし高吉村の方に注ぐ。

神社

天神社

祭神 天神?
鎮座 不明
村の丑(北北東)の方にあり。
鳥居拝殿あり。太郎丸村修験大行院司なり。

寺院

願入寺

村西にあり。
来迎山と號す。開基詳ならず。
慶長17年(1612年)法譽という僧住せしゆえ当寺の中興とす。浄土宗府下寺町本覚寺の末山なり。
本尊弥陀客殿に安ず。

古蹟

館跡

村中にあり。
本丸迹、東西30間・南北36間。
二丸迹、東西30間・南北40間。
三丸迹、東西14間・南北42間。
今民屋となり、四方土居隍の形存し傍に馬場迹あり。
相伝て、富田将監(諱を伝えず。慶徳組新宮村熊野宮に富田氏というものの文書あり。将監が諱を氏實といいしにや詳ならず)居るという。
将監は葦名四天の一富田美作が嫡子なり。天正巳丑磨上原の軍に生年21葦名の先陣を承り、猪苗代盛國が勢を駈散し続けて片倉が備に押向う。片倉もこの勢に友崩れし。将監己に勝軍しつと見えける所に、太郎丸掃部金の圑扇(うちわ)を握て士卒を下知し200余挺の鉄砲を連発し将監が勢を横合より撃破んとす。将監(きつ)と見て、太郎丸掃部ごさんなれ思う所の敵なり(あま)すまじと、馬を馳一太刀切て突落し、七宮杢之助という者に向い首掻けとて馬を駈除けなお先陣に進みゆき、士卒を励まし血戦力を尽くす。(かく)て味方に返忠の者ありて葦名方総敗軍となり、義廣退いて黒川の城に入りしかば将監に力なく引退き、遂に義廣に従い常陸の佐竹に(のが)るという。

道者場

村より未(南南西)の方1町にあり。
東西8間・南北16間。
昔このほとりを押切川流れしに、その頃出羽国湯殿山に詣るもの垢離(こり)をとりし所なりとてこの名残れり。

古塚

村西1町余にあり。
周35間、上に古杉あり。
土人相伝て、長源という者を埋めし所とて長源壇と唱ふ。長源はいかなる者にか詳ならず。






最終更新:2020年08月05日 13:05