悲体

  • 分類:長編小説
  • 初出:「すばる」2003年8月号~2004年7月号(全12回)
  • 雑誌時挿絵:不詳(角取明子、見山博、池田由紀子のいずれかまたは複数)
  • 初刊:2018年/幻戯書房
  • 刊行回数:1回
  • 入手:入手可

あらすじ

 高校時代の一時期、私はよく地図帳を開いて、視線がしびれ、麻痺し、空白しか見えなくなるまで、日本地図を見続けた。
「何をさがしてるんだ」
 教師や友人が、そう訊いてくると、私は「別に……」と答え……するとみんなは、それ以上の興味を示さずに「相変わらず人付き合いが悪いな」という面倒そうな目になって背をむけた。「別に」というのは、私自身に向けた答えでもあった。

幼い頃、二十も年上の韓国人の友人は、母とともに姿を消した。それから四十年が過ぎたある日、笹木哲郎はムクゲの花に誘われるように、ふらりとソウルを訪れた。四十年前に消えた青年と母は、まだ韓国で生きているのではないか? そして、自分には韓国の血が流れているのではないか? 謎めいた女と、父が遺したあの青年からの手紙。いくつもの謎に惑いながら、哲郎はふたりの行方と自らの出生の秘密を求めて韓国を彷徨う……。

登場人物

  • 私(笹木哲郎)
    • サラリーマン。
  • 立石侑子
    • 笹木の前に現れた女。
  • 一美
    • 笹木の妻。
    • 笹木の母。
    • 笹木の父。
  • 岩本達志
    • 笹木の幼少期の友人。韓国人。

解題

2003年から2004年にかけて「すばる」で連載された長編。タイトルは「ひたい」と読む。
生前のうちには単行本化されず、2018年、幻戯書房から《没5年、生誕70年記念出版》と銘打って刊行された。
「すばる」での連載は『ため息の時間』に次いで2作目であり、ため息の時間』と並ぶ問題作・実験作である。

花堕ちる』や『黄昏のベルリン』を想起させる人捜しミステリーとして幕を開けるが、連載第3回からなんと本文中にエッセイが浸蝕し始める。小説の展開に合わせて、その元となった連城の体験がエッセイとして挿入されていくのである。そして最終的にミステリーとしての真相を明らかにしながら、小説とエッセイは垣根を失い混濁していく。何も知らずに読めば間違いなく面食らうだろう。

タイトルは、おそらく「観音経」の一節〝悲体戒雷震 慈意妙大雲〟から。
 観音菩薩のこの世を見る力には五つある。ものを正しく見ること(真観)は、何かを我が物にすることを無意味に感じさせる。その執着しない清らかな見方(清浄観)により、万物が寄り合いながら調和・変化し、動いてゆく広い世界を眺めようと努力する見方(広大智観)が生じる。結果、他人の苦しみをも自分の苦しみとしてともに悩み(悲観)、また自分の大いなる喜びを万人に施す(慈観)ことができるようになる。「悲体」とはこの「悲観」の意味で、人々の苦を自分の苦のように悩み、それを必ず救う観音菩薩の姿を表す。
(本多正一「解説」より)

作中に引用されるエッセイのうち、木槿に関するもの(単行本P55~59)は作中で「平成十三年の『オール讀物』五月号」と書かれているが、正しくは平成14年(2002年)の5月号に「木槿」というタイトルで掲載されている。書籍未収録。
トンボの話(P71~76)の代わりに書いたという〝某食品メーカー〟のPR誌に掲載されたエッセイに関しては不詳。
韓国三景の話(P141~143)は「毎日新聞」1985年9月10日夕刊に掲載された「釜山の月」。父についてのエッセイ「芒の首」(P146~148)は「オール讀物」1981年4月号掲載で、この2つはいずれも『恋文のおんなたち』に収録されている。
「銀座の雨」(P160~163、「銀座百点」1991年12月号)は『一瞬の虹』の文庫版で読める。
連城三紀彦は自筆原稿を捨ててしまうタイプだったようで、引用するエッセイは手元に原稿が残っていたものと、収録書籍が手元にあってそこから引き写せたものから選んだと思われる。

2018年10月19日、命日に合わせて幻戯書房のnoteで本多正一の解説が公開された

刊行履歴

初刊:幻戯書房/2018年4月13日初版発行

私の涅槃図では、木槿の花が、音もなく、――。
没5年、生誕70年記念出版
40年前に消えた母を探し韓国へ来た男の物語は、それを書きつつある作者自身の記憶と次第に混じり合う……出生の秘密をめぐるミステリと私小説的メタフィクションを融合させた、著者晩年の問題作にして最大の実験長篇、遂に書籍化。
(単行本オビより)

単行本/267ページ/定価2200円+税/入手可
解説/本多正一
装幀/間村俊一

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最終更新:2018年10月19日 18:30