経歴
連城三紀彦(れんじょう みきひこ)
本名、加藤甚吾(かとう じんご)。
1948年1月11日、愛知県名古屋市に生まれる。姉ばかり4人いる5人兄弟の末っ子で長男(正確には上に兄がいたが、すぐ亡くなってしまったらしい)であった。
父(謹吾)は岐阜にある浄土真宗の寺の家系だったが、祖母が寺を捨てて名古屋に出、旅館業をしていた。母(ふさ子)は生粋の名古屋人。
連城が物心つく頃には父は既に半病人のような生活をしており、母が馬車馬のように働いて家族を支えていたという。酒を飲んで暴れる父の手から逃れるため、母は連城の手を引いてお金のあるときは映画館に逃げ込んだ。のちに連城が映画青年となったのはこうして映画に親しんでいたことによるようだ。
心臓弁膜症があり、あまり身体の強い子供ではなかったようだ。
生家は名古屋市立牧野小学校のすぐそばにあったようである。
また、実家の近くに中村遊廓があり、花街の女性がよく家を訪れていたという。
名古屋市立牧野小学校、愛知教育大学附属岡崎中学校、愛知県立旭丘高校を経て、外交官を目指して東京外語大学を受験するが失敗。1年浪人にして外語大に再挑戦するもまたも落ち、早稲田大学政治経済学部に入学。
ちなみに同じ1948年生まれで早稲田大学政治経済学部卒の作家に、時代小説家の青山文平がいる。連城と何らかの交流があったかどうかは定かでない。
大学時代は映画の脚本家を目指していた(映研には入ろうとしたが止めたという話を「
試写室のメロディー」に書いている)。この頃から古めかしい本名を嫌い、通名として「加藤三紀彦」を名乗っていたらしい。在学中、1年休学して脚本の勉強のためパリへ留学(本人曰くほとんど遊んでいたという)。また大学の近くにあった大映に出入りし、映画監督の増村保造にシナリオを見てもらったりしていたらしい。しかし帰国すると大映が倒産しており、脚本家の道を断念。
1972年に早大を卒業、森英恵の「ハナエモリ」銀座店に1年勤務したのち、地元に戻り、一番上の姉が経営していた学習塾「加藤塾」で英語を教えていた。
直木賞受賞までは愛知県海部郡大治町に在住していたようだ。ちなみに29歳の頃、結婚を考えた相手がいたらしい。
1978年(掲載誌の発売は1977年)、「
変調二人羽織」で第三回幻影城新人賞小説部門に入選。同時受賞に堊城白人「蒼月宮殺人事件」と李家豊(後の田中芳樹)「緑の草原に……」があり、この縁で田中芳樹とは生涯親友であった。幻影城に応募したのは、友人に勧められたからとも、泡坂妻夫が好きだったからとも言っている。
「加藤三紀彦」という名前で応募したそうだが、前年の佳作入選者である加藤公彦と紛らわしいため変えなさいと編集長・島崎博から言われたそうな。「連城」の姓は姉が考えたとのこと。なお、賞金は「あげると倒産するから」と貰えなかったそうである。
島崎博からは非常に高い期待を寄せられ、「
藤の香」に始まる
花葬シリーズをはじめ短編10作品を「幻影城」に発表。翌1979年、処女長編『
暗色コメディ』を刊行するが、その直後に幻影城が倒産してしまう。
1980年、「オール讀物」に「
運命の八分休符」が掲載され、以降は中間小説誌をメインに活動する。同年発表した「
戻り川心中」で早くも第83回直木賞候補となり、翌1981年、第34回日本推理作家協会賞短編部門受賞(仁木悦子「赤い猫」と同時受賞)。
1984年、『
宵待草夜情』で第5回吉川英治文学新人賞を受賞。同年、『
恋文』で第91回直木賞を受賞すると、一躍人気作家となり、この年の紅白歌合戦では審査員を務めている。これ以降、ミステリ作家としてより恋愛小説家として有名になり、80年代後半はミステリ要素の薄い恋愛小説の作品が多くなる。
84年末、作家専業で食べていける目処が立ったため上京。共同事務所「オフィス・レム」に連城三紀彦事務所という仕事場を持つ。この共同事務所には他に関口苑生(書評家)、香山二三郎(コラムニスト)、北澤和彦(翻訳家)、上原ゼンジ(写真家)などが机を置いていたという。
また映画プロデューサー・山田耕大が設立した制作会社「メリエス」にも籍をおいていたようだ。メリエスは連城作品の映画化権を管理していたらしく、メリエス所属の脚本家たち(荒井晴彦、高田純、一色伸幸など)は『
もうひとつの恋文』や『
あじさい前線』などの作品のモデルになっている。俳優の奥田瑛二、脚本家の荒井晴彦とは特に親交が深かったようである。
また『
恋愛小説館』『
ため息の時間』の解説を書いている濱田芳彰は86年頃から連城の助手をしており、エッセイにたまに登場する。97年頃からは『
さざなみの家』などの装画を手掛けた荻野大輔が助手を務めたようである。
1986年、仏門入りを決意。翌1987年初め、東本願寺で得度。浄土真宗大谷派の僧侶となり、三重県いなべ市の行順寺に所属した。法名は智順。得度は1985年とWikipediaや本の著者紹介で書かれているが、これは誤り(おそらくこの誤りを広めたのは『日本ミステリー事典』)。また同朋大学で学ぶために1年休筆したとも言われるが、この時期に実際に休筆した形跡はない。田代俊孝の追悼文によれば、休筆を宣言したものの、実際は休筆させてもらえかったというのが実態だったようだ。
以降、90年代前半までは年3冊前後のペースで精力的に作品を発表する。1988年には『
黄昏のベルリン』で「このミステリーがすごい!」3位、「週刊文春ミステリーベスト10」1位。ただ一般的に恋愛小説家と見なされたためか、ミステリーか恋愛小説か区別しにくい作品が多かったためか、90年代の傑作群の多くはミステリ界からはほとんど注目されることはなかった。
1995年頃から郷里の名古屋へ戻り、老齢となった実母の介護をする生活となり、作品発表ペースが減っていく。1996年には『
隠れ菊』で第9回柴田錬三郎賞を受賞するが、実母の介護が忙しくなるにつれて連絡のつかなくなる出版社が増えたようで、作家廃業説も流れたようである。
2002年、90年代後半に雑誌発表されたままになっていた2長編『
白光』『
人間動物園』が相次いで刊行され、連城のミステリ復帰作としてミステリ界でも好評を博した(実際はミステリ界が90年代の『
美の神たちの叛乱』『
落日の門』『
顔のない肖像画』『
終章からの女』『
紫の傷』などをガン無視していただけなのだが)。しかしこの後、2004年頃から再び介護のため作品発表は断続的となる。
2008年に発表した『
造花の蜜』で「ミステリが読みたい!」1位、第9回本格ミステリ大賞候補。2008年末、10年に渡って介護した実母が逝去。2009年2月には敬愛する泡坂妻夫も鬼籍に入り、上京してお経をあげていったという。その後は自身に胃癌が見つかり、闘病生活に入る。闘病を続けながら、「小説宝石」に『
処刑までの十章』を2012年まで連載した。
2013年10月19日、逝去。没後の2014年、短編集『
小さな異邦人』と長編『
処刑までの十章』『
女王』が相次いで刊行され、綾辻行人・伊坂幸太郎・小野不由美・米澤穂信編による傑作選『
連城三紀彦レジェンド』も刊行。第18回日本ミステリー文学大賞特別賞を受賞した。
※事実誤認等があればご連絡ください。
関わりの深い人々
田中芳樹
幻影城新人賞の同期入選。家族ぐるみの付き合いをしており、田中夫妻と3人で中国旅行に行ったりしている。
田中は連城の『
暗色コメディ』(新潮文庫)に解説を、連城は田中の『流星航路』(徳間文庫)と『銀河英雄伝説4 策謀篇』(徳間文庫)に解説を寄せており、「IN★POCKET」1993年8月号に掲載された対談「ぼくら〝超能力義兄弟〟」は田中の『創竜伝2 摩天楼の四兄弟』(講談社文庫)とエッセイ集『書物の森でつまずいて……』に収録されている。『
女王』ではオビに推薦文を寄せ、「小説現代」誌上で香山二三郎と対談した。
また妻の田中洋子は連城の『
螢草』(文春文庫)の解説を担当した。
泡坂妻夫
幻影城新人賞の2年先輩。連城にとっては敬愛する存在で、連城が幻影城に投稿したのも既にデビューしていた泡坂のファンだったからである。
同じ幻影城出身、ともに国内ミステリ史上傑出した短編の名手であり、作風的にも似通ったところがあるため、ファン層もわりと被っており、並べて語られることは非常に多い。
2009年に泡坂が亡くなった際には追悼文を寄せ、上京してお経を上げていったという。
泡坂は連城の『
敗北への凱旋』(講談社文庫)と『
宵待草夜情』(ハルキ文庫)に、連城は泡坂の『湖底のまつり』(角川文庫)と『妖女のねむり』(新潮文庫)にそれぞれ解説を寄せた(『妖女のねむり』解説は「泡坂妻夫――活字づくりの寄席」と題して『
恋文のおんなたち』や『総特集 泡坂妻夫』で読める)。
竹本健治
幻影城の先輩(年齢は竹本の方が6歳下)。連城が愛知住まいだった頃、上京するたびに竹本宅に泊まっていたらしい。
『
暗色コメディ』CBSソニー出版版では解説を担当した。「影の会通信」の連城担当号(1978年7月号)では、連城が当時新婚だった竹本夫妻に対して行った電話インタビューの模様を芸能リポート風にまとめており、親しさが伺える。
また「連城三紀彦さんを偲ぶ会」の発起人のひとりに名を連ね、「ジャーロ」と
日本推理作家協会の協会報に追悼エッセイを寄稿した。
奥田瑛二
俳優・画家・映画監督。連城の短編「
少女」をきっかけに知り合い、特に連城と親しく付き合った人物。
「少女」は自ら監督・主演して『少女~an adolescent』として映画化した。ほか、連城作品の映像化ではドラマ「雪の宿」(原作:「
会津の雪」)と、ドラマ版「
私の叔父さん」で主演を務めた。
また連城の『
花堕ちる』の連載に挿絵を描いたことがきっかけで画家としても活躍するようになり、連城作品では『花堕ちる』のほか『
螢草』、『
恋文のおんなたち』(単行本)、『
少女』(文庫新装版)の4冊で装画を手がけた。『
処刑までの十章』ではオビにコメントを寄せている。
二度ほど対談もしており、一度目は『恋文のおんなたち』で、二度目は国会図書館のデジタルコレクションで読める。
瀬戸内寂聴曰く、「私はその一夜で、連城さんが奥田さんに真剣な恋を抱いていることを見ぬいた。」(『死に支度』より)
また奥田瑛二本人も、「連城さんはたぶん、僕に惚れていたんですよ」と『映画芸術』446号の追悼エッセイで語っている。
荒井晴彦
脚本家・映画監督。製作会社「メリエス」のメンバーの中でも、特に連城と親しかった脚本家。
『
恋文』の解説を担当し、『
ため息の時間』の〝センセイ〟、「
タンデム・シート」の〝晴彦〟などのモデルとなっている。
脚本を手がけた連城作品の映像化は、映画『もどり川』、テレビドラマ『誘惑』『過去を追う女』『
盗まれた情事』『私の叔父さん』。
雑誌『映画芸術』発行人。その縁で『映画芸術』誌には連城も何度か寄稿し、毎年のベスト・ワーストアンケートに回答していた。『映画芸術』誌は連城の追悼特集も組んでいる。
2014年3月の「連城三紀彦さんを偲ぶ会」では発起人のひとりとして、最後に挨拶をしたようだ。
瀬戸内寂聴
作家、僧侶。「幻影城」の仲間を除けば、おそらく連城にとってほぼ唯一に近い、親しい同業者。
初めての対談は連城の得度以前(84年)だが、その後連城が得度し僧侶作家となったことで縁が深くなり、実に4度に渡って対談をし、一緒にお遍路めぐりをしたりしている。
連城は寂聴の『女人源氏物語』第2巻に解説を書いたほか、亡くなる直前のインタビュー「わが人生最高の10冊」にも寂聴の『美は乱調にあり』を挙げている。寂聴も2014年に刊行した『死に支度』の中に、連城の訃報に接して連城との思い出を回想するエピソードがある。
香山二三郎
コラムニスト、ミステリ書評家。連城三紀彦事務所のメンバーで親友だった。
ともに映画狂であり、連城三紀彦を香港映画に傾倒させた犯人。
連城作品の解説を計9回務めており、現時点で最多登板者である。
中村彰彦
編集者、作家。文藝春秋の編集者時代、連城三紀彦の担当編集者だった。
『
明日という過去に』の解説のせいで主にミステリファンはあまりいい印象を抱いてなさそうだが、「オール讀物」に追悼文を寄せ、「連城三紀彦さんを偲ぶ会」の発起人のひとりでもあり、連城にとっては縁の深い人物のひとりであることは間違いない。
連城シンパの作家たち
綾辻行人
言わずと知れた新本格の発端にして、熱烈な連城シンパ。「連城三紀彦さんを偲ぶ会」発起人のひとり。
デビュー以前に連城三紀彦に「四〇九号室の患者」を読んでもらい、アドバイスを受けたことがある。
記憶テーマと叙述トリックを好んで用いるのは「
白蓮の寺」に多大な影響を受けたかららしい。
妻の小野不由美とともに『
連城三紀彦レジェンド』編者を務めたほか、『
私という名の変奏曲』文春文庫版、『
夜よ鼠たちのために』宝島社文庫版など、近年の連城作品の復刊ではオビに推薦文を寄せている。
伊坂幸太郎
言わずと知れたベストセラー作家にして、熱烈な島田荘司ファンであり連城三紀彦ファン。
『ラッシュライフ』は『暗色コメディ』が下敷きになっていることを2004年頃から明かしている。
2010年頃まではあまり連城シンパぶりを発揮することはなかったが、おそらく『スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎005』の選者を務めた際に「
夜の二乗」を読んだのがきっかけで連城三紀彦熱が燃え上がったようで、2011年頃からは自らPOPを作って書店に連城作品を売り込みに回るなど、熱狂的な連城シンパぶりを発揮している。『
連城三紀彦レジェンド』巻末では綾辻行人とそのあたりを熱く語り合っている。
米澤穂信
言わずと知れた(略)。
『
連城三紀彦レジェンド』編者のひとり。『
敗北への凱旋』講談社ノベルス復刻版でも解説を務めた。「オール讀物」2013年12月号には追悼文を寄稿している。
道尾秀介『カササギたちの四季』光文社文庫版の解説では、
かつて私は連城三紀彦の小説を読み、ミステリであることは小説としての何かを諦めなければならないことを意味しない、と思った。
と熱く語っている。
道尾秀介
言わ(略)。
デビュー以前は連城を読んでいなかったようだが、デビュー後に「連城三紀彦好きでしょ?」とよく訊かれたため読み始めてハマったそうで、『
隠れ菊』集英社文庫版ではオビに推薦文を寄せた。
初期のどんでん返しを重視した作風から、一般小説寄りの作品で直木賞を受賞するなど、作家的経歴もどことなく連城三紀彦に近い。
ちなみに「野性時代」2009年3月号の道尾秀介特集では、連城三紀彦が質問者として名を連ねている。
- いました。 -- 田代 俊孝 (2020-06-10 10:38:01)
- 得度は、東本願寺で受けましたが、所属は真宗大谷派行順寺で、同時の法要に参勤していました。 -- 田代 俊孝 (2020-06-10 10:39:36)
- 得度は、東本願寺で受けましたが、所属は真宗大谷派行順寺で、同寺の法要に参勤していました。 -- 名無しさん (2020-06-10 10:40:09)
最終更新:2020年07月12日 20:21