明日という過去に

  • 分類:長編小説
  • 初出:「新刊ニュース」1991年10月号~1992年12月号
  • 初刊:1993年/メディアパル
  • 連載時挿絵:荒井冨美子
  • 刊行回数:2回
  • 入手:入手可

あらすじ

 結婚して三年目を迎えようとする夏の終りでした。あの人がふっと、
「人の感情にも色があるなら、悲しさっていうのは何色だと思う」
 私にそう問いかけてきたことがあります。いいえ、私にではなくあの人はその時手にしていた小さな絵に向けてそう声をかけたのですから、ただのひとり言だったのかもしれません。私が夏の盛りに悠美を産み病院から戻って間もなかった頃で、その日あの人は会社から帰ってくると画家の友人が出産の祝いに郵送してくれた絵を早速に開いて眺めていたのです。『幸福』という題のついたその絵は十八年が過ぎた今も居間の壁にかけてあるのですが、様々な色が煙のように淡い筋をひきながら混ざりあい、透明のようにも不透明のようにも見える不思議な一つの色に溶けこんだ抽象画です。
「幸福っていうのは、こんな手探りしても摑み損ねてしまうようなややこしい色をしてるのかな」
 あいつ、こんな才能で本当に画家としてやっていけるのだろうかと冗談半分にそんなことを言って、ごく自然にその、誰に向けたのかわからない問いかけをしたのです。悲しさの色……

矢部綾子と野口弓絵は、二十年あまりも姉妹のように信頼しあっていた親友同士。だが、弓絵の夫の死をきっかけに、綾子と弓絵の間でやりとりされる手紙が、二組の夫婦の間に隠されていたものを次々と露わにし始める。弓絵の夫を死に追いやったものとは何だったのか――?

登場人物

  • 野口弓絵
    • 繚一の妻。
  • 野口繚一
    • 弓絵の夫。癌で死亡。
  • 野口悠美
    • 繚一と弓絵の娘。
  • 矢部綾子
    • 弓絵の先輩で親友。俊作の妻。ジュネーヴ在住。
  • 矢部俊作
    • 綾子の夫。建築家。

解題

二組の夫婦の四角関係を軸に、どんでん返しを繰り返す書簡体ミステリー長編。
掲載誌の「新刊ニュース」は、株式会社トーハンの発行している情報誌。ちなみに連城と縁の深いところでは、泡坂妻夫が後に自伝的長編『春のとなり』を同誌で連載している。

刊行時のインタビューで、連城三紀彦は本作について以下のように語っている。

「レターロマネスクといえば十八世紀にフランスのラクロが書いた『危険な関係』が有名ですが、ほかにもフランソワーズ・サガンの、当時すでに亡くなっていたサラ・ベルナールとの架空往復書簡や、瀬戸内晴美さんと寂聴尼との一人二役の往復書簡など、面白い作品がいくつかあって、自分でもいつか挑戦してみたいと思っていたんです。」
(中略)
「深夜に書いたラブレターは翌朝には到底読めたものではないというぐらいで、手紙というのはもともと嘘がつきやすいものなんです。
 書かれていることが本当か嘘か分からないということのほかにも、手紙にはいくつかの落とし穴があります。例えば、本当にその人が書いたのかとか、必ずしも宛て名書きされた当人が読んでいるとは限らないとか、そういった、手紙という伝達手段が持っている潜在的な可能性を活用して、読者に対していろいろな罠をしかけてみました」
(「オール讀物」1993年8月号 「ブックトーク 往復書簡で綴る二組の夫婦の愛憎」より)

連載開始の直前に「SUN・SUN」に掲載された掌編「彼岸花」は、書簡体形式やダブル不倫の構図など、本作のプレビュー版的な趣きがある。

しかし本書はその内容よりも、幻冬舎文庫版の中村彰彦の解説の方が悪い意味で有名かもしれない。

 連城三紀彦をミステリー作家と形容するむきもあるようだが、それはこの作者に対して失礼ではあるまいか。
 単なる犯人探しや謎解きに終始する通俗ミステリーに対し、連城三紀彦の作品、特に本篇は人間の心理にひそむミステリアスな部分を存分に描き出すことに成功している。嘘の手紙に答えるのに嘘の返事をもってする、という一連の流れから次第に浮かびあがるのは、現代という不毛の時を生きる男女の切実なまでの孤独感であり、喪失感に他ならない。
 小説世界の開幕する時点から十八年も前に死んでいる、野口繚一の荒寥たる心象風景までまざまざと立ちあがらせる筆力はまことに驚嘆に値する。
 私は連城三紀彦の作品群を心理小説ということばで受け止めているが、男と女、あるいは生者と死者との交感のなかから人間関係のはかなさを乾いた色調で染め出した点にこそ、本篇の達成度を見るべきであろう。
 もはや作者は、他の追随を許さない独自の文学世界を構築しおおせたかのようですらある。
(幻冬舎文庫版 中村彰彦「解説――レター・ロマネスクの可能性」より)

言うまでも無く、この解説に対するミステリ界の反発は非常に強い。単にファンの間でボロクソに言われているだけでなく、他の本でのミステリ系評論家がこの解説に言及したものがいくつかあるほどだ。

 最近、「連城をミステリー作家と形容するのは失礼だ」という「解説」を読んだ。これほど企みに満ちた作品を書く作家をミステリ作家と言わずして、何と呼ぶ?
(『本格ミステリ・ベスト100 1975→1994』収録 戸川安宣「『暗色コメディ』解説」より)

 ミステリファンの中には、連城三紀彦は『恋文』で直木賞を受賞して、ミステリから離れていった、と考えている人がいるようだ。また、推理小説が嫌いな人の中には、ミステリ雑誌の出身だからといって、いつまでも連城三紀彦を推理作家あつかいするのは失礼だ、という人もいる。しかし、残念ながら、これは、どちらも間違いである。連城三紀彦は、ミステリから離れてもいないし、ましてや推理作家をやめてしまった訳でもない。
(文春文庫版『前夜祭』 日下三蔵「解説」より)

なお、幻冬舎文庫版は幻冬舎文庫の創刊ラインナップの一冊。1997年の初刊から10年経った2007年に刷られた2版が現在も入手可能で、細々と生き残っている。

刊行履歴

初刊:メディアパル/1993年6月1日発行


すべては一通の手紙から始まった…
2組の夫婦に秘められた背徳の過去
東京とスイスを結ぶ往復書簡が織りなすレターロマネスク
(単行本オビより)

単行本/245ページ/定価1359円+税/絶版
装画・本文カット/荒井冨美子 装幀/多田進

文庫化:幻冬舎文庫/1997年4月25日発行


 矢部綾子、野口弓絵。二十年あまり姉妹のように信頼し合っていたが、弓絵の夫が癌で死んだのを契機に二人は愛憎をあらわにする。たがいの夫との深い交わりと、心の惨劇をつづる手紙のやりとり。こそこに書かれた酷いまでの嘘と感情が、恐るべき愛の正体を伝える。一人の男の死を突破口に、人間の存在そのものの謎を描ききった感動の傑作長編小説。
(文庫裏表紙より)

文庫/228ページ/定価495円+税/入手可
解説――レター・ロマネスクの可能性/中村彰彦
カバーデザイン/上原ゼンジ カバーイラスト/Paul Klee

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最終更新:2017年10月17日 02:53