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本丁 > 本四之丁

陸奥国 若松 郭内 本丁 本四之丁
大日本地誌大系第30巻 107コマ目
※会津城下のまちわり - 会津若松史 第2巻より

東は三日町通の北端より、西は外郭の土居際に傍て南に折れ本三之丁の末に出つ。
長9町42間余・幅5間余。家数46軒。

干貫石

この丁の北頬、士屋敷の内にあり。
葦名盛氏の長臣・佐瀬大和某という者(天正中(1573年~1593年)磨上原合戦に討死せし佐瀬大和種常とは別人なり)泉石の癖ありて、城東天寧寺の河原より大石数十を運取り水をせき入れ假山を営み朝夕の娯とす。この石その内の一にて一千貫の資を出して求めし(ゆえ)名くという。
当時の諺に
天寧寺の河原の石は大和殿町の課役はさる人そとる
といへり。さる人とは盛氏をさせしとそ


参照・補足

  • 市役所の裏の通り。宅地開発にて東は三日町口跡地までは繋がっていないし西は高校があり途中で通りが折れている。

外部リンク等

最終更新:2026年02月22日 23:05
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