東は三日町通の北端より、西は外郭の土居際に傍て南に折れ本三の丁の末に出つ。
長9町42間余・幅5間余。家数46軒。
干貫石
この丁の北頬士屋敷の内にあり。
葦名盛氏の長臣・佐瀬大和某という者(天正中(1573年~1593年)磨上原合戦に討死せし佐瀬大和種常とは別人なり)泉石の癖ありて、城東天寧寺の河原より大石数十を運取り水をせき入れ假山を営み朝夕の娯とす。この石その内の一にて一千貫の資を出して求めし故名くという。
当時の諺に
といへり。さる人とは盛氏をさせしとそ
最終更新:2022年11月04日 14:11