アットウィキロゴ

郭外 > 千軒道 > 紫雲寺前通

陸奥国 若松 郭外 千軒道 紫雲寺前(しうんじまへ)
大日本地誌大系第30巻 186コマ目
※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記23』より

馬場町の末より北の方西黒川石堂分田圃(たんぼ)に出る通なり。
長1町32間・幅2間。

非人小屋

この通の西、紫雲寺の北にあり。
寛永中(1624年~1645年)置く所なり。
(この地は西名子屋町長命寺の荼毘処なり)

寺院

紫雲寺

この通の西頬にあり。
山號を龍淵山といい南青木天寧村天寧寺の末山曹洞宗なり。
文禄元年(1593年)中税という僧建立し、相伝て4世に到れども宗旨定らず。
後幾も無しで堂宇荒廃せしを、天祐という者再興し天寧寺の住僧恕山を請て開山とせり。
本山地蔵客殿に安ず。

福證寺

紫雲寺の南に並べり。
京師西本願寺の末山浄土真宗なり。
文禄元年玄海という僧本願寺に至り寺號を請てこの寺を草建す。
本尊弥陀客殿に安ず。

また鐘楼に懸る所の鐘あり。
径2尺3寸『安永五丙申四月奥州會陽城北福證寺釋智充冶工星野宗七重喜』と彫付あり。
(安永5年=1776年)

清林寺

この通の東頬にあり。
照光山と号す。浄土宗五之町高巖寺の末寺なり。
天文19年(1550年)憐海という者草創す。
初めは東典寺とて府城の西南にあり。
3世岌鷹鷲という僧文禄中(1593年~1596年)外郭修理の時この地に移し今の寺号に改む。
本尊三尊弥陀、長2尺6寸・脇立各長1尺6分6分惠心作、客殿に安ず。

縁起に、往古源義経、梶原が讒に因て都を落ち本州に(のが)れる。
一女子蹟を恋てこの地に来り、義経既に高館城にて生害すと聞き河沼郡代田組藤倉村の難波池に身を投げて死せり。
時に彼女ゆかりの者跡を追て藤倉村に至り、その始末を聞き悲哀に堪えず池邊に堂を建て女が携来る所の三尊弥陀を安置す。
その後数多の星霜を経て堂宇廃毀し、慶長中(1596年~1615年)当寺に移せり。今の本尊これなりという。
(この事藤倉村の条下に載する所皆鶴か事蹟に似たり。併せ見るべし)

鐘楼

境内にあり。
鐘の径2尺5寸7分。『寛延三庚午曆仲夏望日沙門良感遠欽白』と彫付あり(寛延3年=1750年)。

宗像神社

同上。

寶物

地蔵画像 1幅
義経を慕い来りし女子の携えし所をいう。

参照・補足


外部リンク等

最終更新:2026年02月13日 00:11
添付ファイル