府城の西南に当り行程18里。
家数16軒、東西30間・南北1町39間、東は山に倚り西は檜枝岐川に近く南北田圃なり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札を懸く。
東1町
中小屋村の界に至る。その村まで9町。
西3町
大橋村に界ひ檜枝岐川を限りとす。
南6町46間
大新田村の界に至る。その村まで12町30間。
北3町
鴇巣村に界ひ檜枝岐川を限りとす。
また丑(北北東)の方24町
宮床村の界に至る。その村まで26町。
もと村北20町余に北原と云う端村あり。
何の頃にか端村・台に移せり。
小名
下山口
本村より丑(北北東)の方20間余にあり。
家数11軒、東西25間・南北1町50間。
山麓に住す。
端村
板橋
下山口の丑(北北東)の方3町30間余にあり。
家数13軒、東西30間・南北1町42間。
山麓に住す。
台
板橋より丑(北北東)の方2町20間余にあり。
2区に住しその間30間を隔つ。
南の1区。家数5軒、東西40間・南北1町。
北野1区。家数14軒、東西20間・南北3町。
共に山麓に住す。
山川
檜枝岐川
村西3町にあり。
大新田村の境内より来り、北に流れ丑寅(北東)の方に折れ、
地蔵沢・
北沢を得て、30町50間を流れ
宮床村の界に入る。
戸山川
中小屋村の境内より来り、
町屋沢・
濁沢を受け村中を過て、北に流るること10町檜枝岐川に入る。
広9間。「いはな」を産す。
大石沢
村より丑(北北東)の方9町50間にあり。
源は境内の山中より出て、戌亥(北西)の方に流るること1里18町、戸山川に入る。
広3間。
関梁
橋
村中、戸山川に架す。
長10間・幅1間。
神社
熊野宮
村西1町余にあり。
鳥居あり。古町村法導院司なり。
若宮八幡宮
祭神 |
若宮八幡? |
相殿 |
伊勢宮 |
鹿島神 |
鎮座 |
不明 |
端村板橋の丑寅(北東)の方3町にあり。
鳥居あり。界村渡部信濃が司なり。
山神社
板橋の丑寅(北東)の方4町にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
古蹟
館跡
村の丑(北北東)の方2町10間余にあり。
東西40間・南北29間。
天正の頃(1573年~1593年)山口右京某という者住すといえども詳ならず。
古戦場
村南6町に答崎という所あり。
また、その北5町に光明院塚あり。
天正17年(1589年)長沼秀盛河原田盛次が勢と戦て敗走せし地なり。
参照
外部リンク等
古地図
※地理院地図(大正2年測図/昭和8年要部修正測図)
答崎の古戦場
大新田村の記載もありましたが、天狗岩がある附近は「いらへが崎」と呼ばれ、伊南川の流れをせき止めるかのような位置にあります(古地図参照)。
風土記本文を見ても「長沼秀盛が河原田盛次との戦をして負けた所」としか記載がなく、これ以上は南会津地区の各種合戦記等を追わねばなりません。
調査中に『
中世伊南と南郷の城館 調査報告書』という書物があることがわかりました。いくつかの文献がこの本を参照しているようなので信憑性は高いかと思います。ですが、非売品ですので入手は困難です。
追記:
南郷村史に答崎について記載がありました。
参照:
河原田盛次の活躍 - 南郷村史 第1巻 (通史)
(天正十七年(1589))
一方河原田は大橋城を開城して大新田に集合し一族郎党馳せあつまって三〇〇余騎その他合わせて四〇〇人に及んで対陣した。時あたかも十一月一二日朝からにわかの降雪となり、加ふるに馬足も自由にならぬ程の大雪と、雪になれた河原田勢の死にものぐるいの攻撃にあって長沼勢は一たまりもなく入小屋さして引きしりぞいた。この戦を山口答崎の戦といい、この戦で討死した長沼勢一六三人を集めて葬った塚を光明院塚といって今も山口に残されている(『新編会津風土記』『会津軍記』)。
最終更新:2025年09月02日 20:17