会津郡南青木組北青木村

陸奥国 会津郡 南青木組 北青木(きたあおき)
大日本地誌大系第31巻 55コマ目

府城の東南に当り行程27町余。
家数36軒、東西1町42間・南北2町46間。
東は山に倚り三方田圃(たんぼ)なり。

東8町余御山村の山に界ふ。
西3町50間府下東黒川南町分の地に界ふ。
南1町南青木村の界に至る。その村まで1町40間余。
北3町小田村の界に至る。その村まで20間余。

村より辰(東南東)の方1町40間に塩硝蔵3屋あり。火薬塩硝を納置く所なり。
その西1町余に番所を設て守らしむ。

山川

大窪山(おほくほやま)

村東2町30間にあり。
高40丈余。
この地草木美はしく満山黄壌なるを以て寛文4年(1664年)肥後守正之士民の葬地とす。
元禄4年(1691年)中峯に標石を建。その文如左
自是南至麓大路八十三間自是北至峯頭百五間自是東至峯頭五十三間自是西至大林百四十六間
右大窪山葬地界限寛文四年甲辰九月晦日 先君中将源公始教士民禁火化仍所置之者也元禄四年辛未六月廿八日表之

寺院

善龍寺

村東山麓にあり。
曹洞宗出羽国山形長源寺の末寺なり。
天正18年(1590年)保科筑前守正則下総国多胡郷に一寺を草創し、上野国松枝補陀寺12世の僧廣林を請て住せしめ祥雲山善龍寺と號す。後信濃国高遠に移り桂泉院に住し吞益宗補英吞に至る。
英吞が時、寛永13年(1636年)肥後守正之に従い山形に移り長源寺に住し、同20年(1643年)正之会津に封ぜられし時泉海という僧従て会津に来り府下花畑に営建せしが、寛文中(1661年~1673年)ここに移し曹洞の一派の僧録とし寺領50石を寄付す。

総門

四建作なり

制札

山門の前にあり。
ここに石階あり。

山門

4間余に2間半。
洪鐘1口を懸く。径3尺。『寛政癸丑四月吉旦祥雲山善龍禪寺持比丘大雄徳明叟』と彫付けあり(寛政癸丑=1793年)。銘あれども略す。
ここより客殿の間に石階あり。

客殿

11間に7間半。西向。
本尊拈華釈迦

庫裏

客殿の南に続く。
16間に5間半

衆寮

客殿の西北にあり。
9間に4間。
客殿よりここまで廊下あり。

霊屋

3間に2間。
正則が位牌を安ず。『祥雲院殿椿叟榮壽大居士天正十九年辛卯年九月六日』とあり(天正19年=1642年)。

日本諸神社

境内にあり。
鳥居あり。

建福寺

善龍寺の北にあり。
臨済宗京師妙心寺の末寺なり。
縁起によるに、旧信濃国上伊南郡高遠にありて文覺が創業の地なり。宋の大覺禅師ここに移り住せし時大寶山建福興国寺と號す。その後保科弾正正忠正直同肥後守正光が位牌を安せしに、寛永13年(1636年)肥後守正之出羽国山形を賜はりし時4世の僧鐵舟正直及び正光が位牌を持して山形に移り、同20年(1643年)また会津に従来り城南黒川の濱に住せり(今文明寺の地なり。府下南町河原新丁の条下を併見るべし)。
延寶8年(1680年)ここに移れり。これより先慶安3年(1650年)10月5日鐵舟遷化し遺骨を高遠建福寺に送る。その後笑巖及び黙堂という僧住す。
元禄中(1688年~1704年)肥後守正容江戸芝東禅寺の僧黙水を請て中興の祖とす。
今に至るまで当家の位牌を安置し寺領100石を寄付す。

総門

四建作りなり。
額に『萬末關』の3字を題せり。道榮が筆なり。

制札

門外にあり。

客殿

13間に7間、西向。
本尊釈迦。

庫裏

客殿の南にあり
一は7間に5間。
一は6間に3間。

衆寮

客殿の右にあり。
13間に5間半。『龍虵窟』と云う額あり。

霊屋

4間に2間。
正直が位牌『建福寺殿天關透公大居士慶長六年辛丑九月二十九日』とあり(慶長6年=1601年)。
正光が位牌『大寶寺殿信巖道義第一寛永八辛未十月七日』とあり(寛永8年= 1631年)。
筑前守が位牌『鳳翔殿前拾遺會陽大守宜山林公大居士』とあり。

鐘楼

客殿の西南にあり。
2間四面。
鐘、径3尺。
『大壇越肥後州太守兼左近衛少将正信(後正容といふ)源公元禄十年丁丑十月初三日』と彫付けあり(元禄10年=1697年)。銘あれども煩しければ略す。

恵倫寺

建福寺の北にあり。
恵倫寺

古蹟

正行寺迹

今建福寺のある所なり。
浄土宗鞍見山と號す。寛文中(1661年~1673年)廃せり。
もと境内に一の井あり。この村に事あらんとする時は水面に1口の征鞍現せし故鞍見池(くらみがいけ)と名け、山號これによりしという。今い建福寺の境内に鞍見池の遺名あり。