昔、三浦義連この地に下向のとき油幕を打て居りし処故村名とせしという。
旧は西の方10町計にあり。天文中(1532年~1555年)の洪水に居を移せしがその後も数度の水災ありしかば、寛永10年(1633年)再び今の地に移しき。
府城の西に当り行程27町余。
家数56軒、東西1町23間・南北1町37間、四方田圃にて西は鶴沼川に近し。
東32間・南2町47間・北は村際にて、共に
西柳原村に界ふ。その村は丑(北北東)に当り5町余。
西9町42間本郡橋爪組
下米塚村の界に至る。その村まで15町。
また戌(西北西)の方8町42間本郡中荒井組
二日町村の界に至る。その村まで14町40間余。
亥(北北西)の方7町5間
鍛冶屋敷村の界に至る。その村まで8町50間余。
もと
片原町とて寛永13年(1636年)に開きし端村あり。元文2年(1737年)府下
西黒川分に属す。
山川
鶴沼川
村西3町にあり。
本郡南青木組
飯寺村の境内より来り、北に流るること10町余
鍛冶屋敷村の界に入る。
応湖川
村の寅(東北東)の方5町計にあり。
小黒川分の界より来り、北に流るること1町計
西柳原村の境内に入る。
水利
飯寺堰
鍛冶屋敷堰
神社
熊野宮
| 祭神 |
熊野神? |
| 相殿 |
稲荷神 |
| 諏訪神 |
| 鎮座 |
建久2年(1191年)~? |
村西1町50間余にあり。
縁起に、葦名氏の先祖紀州牟婁郡より勧請し、尊崇他に異にして社頭も壮大なりしが、天文中(1532年~1555年)洪水のために社屋漂没し今の地に移せり。
(旧地を詳にせず。蒲生氏その地の木材を伐て府城の守を築けりといい伝う)
古木繁茂して物ふりたり。
鳥居あり。
郭内諏訪神社の神職佐久上総が司なり
寺院
真浄寺
村中にあり。
浄土宗本州岩城専称寺の末山なり。
相伝う。
義連初め假にこの村に住せしが、後に今の飯寺村の館に移住し家臣仁科太郎光盛という者をしてここに住らしめしが、光盛そのまま私の居にすることを憚り、良智という僧をして郭地に一宇を建立せしめ佛恩寺新城寺と號し後に今の字に改めき。
天文中(1532年~1555年)水災に院宇漂亡せしを、慶長中(1596年~1615年)教残という僧中興せり。
その後元和(1615年~1624年)・寛永(1624年~1645年)の際数洪水の難あり、因て今の地に移せり(旧地はここより西3町余にあり)。
本尊弥陀客殿に安ず。立像長2尺6寸、恵心作という。
また地蔵立像1軀あり。長2尺5寸、運慶作という。その像旧はこの村の端村中島という処に安置す。天文中の洪水に村と共に本村の南に移し、中島を改めて上幕内と称し高蔵院という密宗の一寺を創めこの像を安せしが、元和中の洪水に漂亡せり。因て当寺に移せりと縁起に見ゆ。然れども土人端村中島・上幕内等の称あることを伝えず。
参照・補足
外部リンク等
古地図
※「
若松町 地図」(明治23年6月調製/同32年9月再版) - 会津若松市/デジタルアーカイブ
村名について
幕末まで(1868年)、会津郡幕ノ内村
明治8年(1875年)、 鍛冶屋敷村・深川村・幕ノ内村・柳原村が合併し南四合村となる
※以後は
会津郡高久組小見村#村名についてを参照
最終更新:2025年12月07日 00:03