下町

陸奥国 若松 郭外 (した)
大日本地誌大系第30巻 153コマ目

※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より

大町を除き西の町々を総て下町と称す。
また桂林寺町より以西は郭内諏訪神社の後に当る(ゆえ)後町とも称す。

(おとな)

大町の南より西に折れて末は大和町に至る。
東西2町32間・幅3間余、家数31軒。

旧家

川副勘左衛門

その先近江源氏にて備中守時親という者近江国神崎郡川副を領せしより子孫因て市とす。明應の頃(1492年~1501年)裔孫に新太郎連賴という者あり。室町家に仕えて伊賀守に任ぜらるという。永禄8年(1565年)5月19日三好・松長が乱起て後曾孫勘解由賴源蒲生定秀の幕下に属し近江国箕浦の合戦に(しばしば) 定秀危を援ひ遂に浅井が兵を破りしという。その子政信(ゆえ)ありて勘気を受け籠居して死せり。因て氏郷勢州*1に移封の時も一族従わずして本国に駐れり。政信男子4人女子1人あり。長男を長右衛門(初久八と称す)重良といい蒲生秀行の招に応じ会津に来り岡半兵衛重政が姉を娶れり。今に重政が墓(半兵衛町極楽寺にあり)に彼が家にて香花を供するはこれを以なりとぞ。次男は平左衛門(初小八と称す)信充という。三男を三大夫(初喜八と称す)政國といい、上杉景勝に従い羽州*2長谷堂の合戦に打死す。四男を作吾政慶といい初築州*3に至り黒田家を干し後仕を辞して会津に来る。女子は徳子と称し豊臣家に官事せり。これ等の因にて天正中(1573年~1593年)諸役免除の書を与えらる。重良が子を源六正勝といい、子孫上杉・蒲生・加藤三家に歴仕し耶麻郡熊倉村を領せしと見え。その村の肝煎赤城長五郎が家に彼が租税を受取りし時の書を蔵む(熊倉村の条下を併見るべし)。加藤家石州*4吉長に移りし時彌平次政度といいもの浪人しこの町に住せしより相続て今の勘左衛門政方に至りしという。
寶物
  • 太刀 一口
    • 半より折れしものにして『國□』と銘あり。下の文字明ならず。
  • 古布 一町
    • 4尺四方計。淡黄に白紋あり。所々に血の染し痕見ゆ。往時戦場にて首桶を(つつ)みしものという。
  • 豊臣家文書 一通
    • その文如左
各々儀諸公事に令免除候之間可成其意候也仍如件
  天正十貳       筑前守
    七月十日      秀吉(印)
      徳 母儀
       川副久八とのへ
       同 小八とのへ
       同 作五とのへ
       同 喜八とのへ
  • 消息 一通
    • 両邊は缺て完からず。左に出す。 ※略

北小路(きたこうぢ)

老町の北に並び末は西黒川小黒川分の地に通す。
長6町50間・幅4間、家数138軒半(商家宅地の割余を1軒に充ざるものは半軒前と称して課役を弛む。桂林寺町・河原町等比例に同じ)、末は民居に続く(即小黒川分の地なり)長31間・幅3間、家数5軒、北小路四谷という(耶麻郡慶徳組新宮村にこの町と道場小町紺屋町はもと彼地にありし由をいい伝う)。

秤座*5

この町の南頬にあり。
中村五左衛門という守随彦太郎が出座にて奥州一ヶ所の秤座なりとぞ。

神社

稲荷神社

祭神 稲座明神?
創立 不明
この町の北頬にあり。
相伝う、往古この地に里人多く集り刈稲を商いし(ゆえ)稲座(いなくら)明神という。慶長の頃(1596年~1615年)までは社木に槻の大樹ありしが火災に逢て枯失せしという。
鳥居あり。安養院司なり。

寺院

安養院

稲荷神社の境内に続く。
山號を稲座山といい醍醐偏知院の末寺真言宗なり。
開基の年代詳ならず。初は郭内延壽寺の地にあり慶長中(1596年~1615年)蒲生秀行より寺領50石を与て祈願所とし忠郷の時今の地に移るという(寺領今はなし)。
本尊観音客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。

長福寺

この町の南頬にあり。
萬松山と號す。上野国白井雙林寺の末山曹洞宗なり。慶長3年(1598年)守應という僧開基す。
本尊釈迦客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。堂中に姥神の像を納む。
熊野三所宮
境内にあり。災いに罹て再建未だ成らず。

旧家

小池傳吉

世々この町の検断*6を勤む。先祖は清和源氏にて小池左近源實利とて甲州小池郷に住し武田信玄に仕ふ。實利が長男を實次といい初め藤七と称し後に理之介と改め会津に来り葦名盛氏の仕え弓大将となる。その次を外池信濃と称し、またその次を内池備後とて2人共に蒲生氏郷に仕えり。女子は金上遠江守盛備に嫁せり。盛氏自筆の文書を以て實次に宅地を与ふ。これよりこの町に住し子孫相伝て今に至れり。盛氏(かつ)てその宅に宴し三階の楼に登り歓のあまり筆を援て北大楼といい額を題す。盛氏修理大夫なるにより改て歌之丞と名乗るべき(よし)を命ず。この時實次貞宗の短刀を献せりという。隆盛の時に(ゆえ)ありて仕を辞し南山檜原郷に蟄居する事8年、蒲生氏郷封に就て信濃と備後がゆかりによりその名を聞き及でこれを招く。されど實次は盛氏の恩顧厚かりし(ゆえ)仕る事を願わず固くその聘を辞す。この時氏郷より日月を彫たる硯と三足の蟾蜍(ぜんじょ)*7の水滴を与えり(今(なお)家に伝ふ)。嗣子雅楽之丞實忠仕て代官たり。實忠死し弟雅楽之丞實家嗣て仕えしが蒲生家絶て浪人しその子傳吉實明加藤家領知を収公せられし時台命ありて諸士の家宅を引受け漆蝋の府を守らしむ。因て官より廩俸を賜りしという。当家入封の後家資を以て新田200石の地を開き闢きし功により寛文7年(1667年)に知行100石を与え丁夫5人を率い戎事(じゅうじ)*8従うべきよしを命ぜり。これより今に至てその子孫絶えずここに住し検断を勤む。
盛氏の文書1通を蔵む。その文左に載す。
其方屋敷之事うしろ町に可遺候請󠄁取早々使に被越可在候左候はゝ合可遺候かしこ
         止々齋判
          小池方へ

赤城惣兵衛

その先藤原氏にて波多野民部大輔経秀が後なりという。永正の頃(1504年~1521年)赤城勘解由忠頼というもの始て上野国赤城に住し後流落してこの国に来り葦名氏に寄食し河沼郡野沢組赤井村に住せり。その子玄蕃忠清中村備中忠義という者の家を継ぎ即夏井村に住し氏を夏井に改めその邊の河井東羽賀及び耶麻郡西海枝萩野等の15ヶ村を領し葦名氏に属し天正17年(1589年)義廣奔敗の後浪人せり。その時伊達氏の与えし文書あり(今はなし)。忠清が子惣兵衛是忠氏をまた城に復しこの町に住す。その子瀬兵衛是村という者ここの名主となり、相続いて今の惣兵衛方敬に至るまで5世なり。

七日(なぬが)

北小路町の北に並び、大町札辻より西に往く通にて越後・出羽両国に通る街道なり。旅籠屋多し。
長7町16間・幅4間、家数149軒。
西に小黒川分の民家連なる七日町四谷といい長1町12間・幅3間余、家数20軒(即小黒川分の地なり)。
町末より8町1間、高久組高瀬村に界す。
またこの町の末より北小路町に出る小路あり。

寺院

常光寺

この町の北頬にあり。
山號を松林山といい比叡山南光坊の末寺天台宗なり。
開基の初詳ならず(舊事雑考に永和4年(1378年)黒川浄光寺建と記し当寺の事なるべしと伝えり)。
初は律宗なりしが後真言宗となる。元和年中(1615年~1624年)成秀という僧また台家となり僧正天海に謁して叡山の直末となる。因て成秀を中興とす。
本尊弥陀客殿に安ず。成秀護持の像にて古物なり。
寶物
  • 元三大師像
  • 如意輪観音像
  • 不動像
  • 僧正天海文書

吉祥院

この町の北頬にあり。
博労町自在院の末寺真言宗なり。長命山と號す。
越後国の僧弘信という者この地に来り慶長6年(1601年)この寺を建つ。
本尊地蔵客殿に安ず。
地蔵堂

阿弥陀寺

この町より北小路に通ずる小路にあり。
正覺山と號す。下野国真壁郡大澤圓通寺の末寺浄土宗なり。
開基の僧を良然といい真壁郡の産にて本州安積郡郡山無善通寺に住し疾あるにより療治の為会津に来り数年寓居せり。蒲生秀行の家臣倉垣某という者会て良然と方外の知己なりし(ゆえ)秀行に請て慶長8年(1603年)にこの地に開けり。その時倉田某近江国より来りこの郷に家居せしが資財を出してこれを助く。佛殿衆寮方丈小院巨麗にしてみな備れし。これに於いて圓通寺の末山となり元和4年(1618年)龍象*9130余員を集て大法会を設く。4月より7月まで法問を修行す。今に至るまで相伝て浄門の盛事とす。良然後に見性寺を開いて隠居せし。その後当寺火災に燒亡し佛殿衆寮旧の如くならず。唯弥陀の霊像のみ伝て客殿に安ず。良然護持の物という。
稲荷神社
観音堂
供養塔

紺屋(こんや)

七日町の北に並び大町より西の方大和町に行く通なり。
長2町52間・幅4間、家数46軒。
そのかみこの町に紺掻(こうかき)*10多く家す(ゆえ)に名く。

(はらの)

紺屋町の北に並び、長2町53間・幅4間、家数52軒。
そのかみここを闢きし時この地葭原(よしはら)なりし(ゆえ)町名となりしという。

旧家

國安太吉

姓名の出る所を詳にせず。先祖を清太郎光國といい近江国に住し信濃関の住志津三郎が伝を得て刀剣を鍛ふ。天正18年(1590年)蒲生氏郷に従て会津来り慶長中(1596年~1615年)秀行のために佩刀ならび()矢鏃を製せしに秀行これを喜し世々國安と銘ずべきよしを命じ(しばら)く扶持米を与ふ。尋て加藤家の時も給米を与えられ当家封に就て月俸を与ふ。今に矢鏃をつくることを業とし家人の列に次せしむ。昔時蒲生家より扶持米を与えられり時の文書家に伝ふ。如左。
※略

道場小路(だうぢやうこうぢ)

原町の北に並び、長2町53間余・幅3間、家数45軒。
この町郭内に在し時当麻の道場に近かりし(ゆえ)名けり。或は昔ここに窪道場(赤井丁日光寺これなり)ありし故名けりともいう(この町半より東は上町に隷す)。

寺院

観音寺

この町の北頬にあり。
馬寶山千手院と號す。醍醐三寶院の末山にて会津真言宗四ヶ寺の一なり。
明徳3年(1392年)武田大和守という(何人なる事を詳にせず)者今の鳥居町伊舎須弥神社の邊にこの寺を建立せり。その頃密家の僧に法印仁鑁とて名高き沙門ありしを請して当寺の開山とし天文21年(1552年)葦名遠江守盛舜の臣岡崎某大和田の地(その地を伝えず。河沼郡代田組に大和田村あり。若くは彼地を指すにや)を割て寺領とす。蒲生氏城郭修理の時今の地に移れり。これより先天正巳丑の乱(天正17年=1589年。葦名家と伊達家の戦い)に11世信榮という者難をさけて越後国に逃れし故古記を失て往昔のことみな烏有(うゆう)*11せりという。今(わずか)に伝るところ古文書数通あり。また鐘一口あり、径1尺2寸余『天和三癸亥歳壬五月廿四日住持沙門秀弘』と彫付あり(天和3年=1683年)。
制札
客殿
庫裏
観音堂
稲荷神社
寶物
  • 和漢朗詠集註
  • 提婆画像
  • 大威徳明王
  • 曼荼羅
  • 画像
  • 愛染明王
  • 古文書

桂林寺(けいりんじ)

桂林寺町口の郭門を出て北の方七日町に至る。
長5町53間余・幅3間。家数128軒半。
昔何の頃にか桂林寺という時宗の道場(今その地を詳にせず)ありし(ゆえ)町名とせり。
中程より当麻町に出る小路あり(東黒川千石分の地雑はれり)。

浄光寺跡

この町の北頬(ほり)際にあり。
寛文11年(1671年)徒町願成就寺前通に移し蹟を町屋敷とす。

成就寺跡

浄光寺蹟の北にあり。今は護摩堂屋敷と称ふ。
天台宗郭内延壽寺の末山にて山號を如意山といいしとぞ。
開基の始詳ならず。什物に秘密灌頂(かんじょう)式一軸ありて應永25戌亥年(1418年)本寺僧英海より如意山成就寺住持耀海に付属すという奥書ありしという。何のころにか廃して町屋敷となる。

旧家

葉山藤蔵

藤原姓にて先祖を延時という。初左兵衛尉と称し後掃部頭と改む。本州白川の産なり。

四条院延應元年(1239年)南都東大寺の洪鐘を造んとて冶工に命じて鑄さしむるに成らず。この時延時たまたま京師*12にありしかば冶工に代り山に入てこれを鎔せしにその功不日に成て(やが)て朝廷に達す。因て勅して氏を早山と賜いこれより世々早山氏を称すといい伝う。その後数世の間譜第詳ならず。永正の頃(1504年~1521年)裔孫に掃部助兼次というものあり。始て会津に来りこの町に住し大沼郡高田組高田村文珠堂鐘楼に懸る所の鐘の命に『大檀那平盛高永正十四年丁卯四月十九日大工掃部助兼次』*13とあるこれなり。その子掃部助家次といい道金と號す。耶麻郡川西組本寺村恵日寺の鐘に銘あり。その子を主殿助善次といい郭内諏訪神社の鐵燈籠・耶麻郡熊倉組上勝村勝福寺の鐘に銘あり。その子を掃部助吉次といい、これより相襲て世々掃部助と称す。吉次が子を定継といい河沼郡牛沢組柳津村虚空蔵堂の鰐口に銘あり。その子を定次といいこれも彼別当圓蔵寺の鐘に銘あり。これ等みな名を金石に勒して人の知る所なり。定次より今の藤蔵由次に至て15世の間冶鑄を業とし封内寺社の神器佛具を作りその名今に至て見るべし。また傍ら戎器を製す。今月俸を給て家人の列に次せしむ。往昔延時に賜所の綸旨永く伝て家珍とせしが、慶長15年(1610年)3月15日の火災に失えしという。


後分(ごのぶん)

桂林寺町の末に続き北の方糠塚町に通る路なり。
長2町21間・幅4間、家数13軒。
後町に隷する(ゆえ)名あり(西黒川赤岡分の地雑はれり)。

寺院

和泉明院

この町の西頬にあり。
道場小路観音寺の末寺真言宗なり。壽寶山と號す。開基を詳にせず。旧東黒川の地にあり(その地詳ならず)。文禄元年(1593年)城郭修理の時この地に移り、本尊不動客殿に安ず。
荒神社
境内にあり。

威徳院

この町の末にあり。
中光山と號す。博労町自在院の末寺真言宗なり。開基の年代詳ならず。昔は郭内諏訪神社の邊にありしが文禄元年(1593年)沙門實尊蒲生氏に請てここに移り堂宇を中興せり。
本尊大日客殿に安ず。

圓福寺

威徳院の南にあり。
真言宗道場小路観音寺の末寺なり。醫王山と號す。文禄元年(1593年)清譽という僧蒲生氏に請て一宇を建立す。また西黒川石堂分の地に地蔵堂あり年を経て毀廃せしかばこの寺に納むという。
本尊大日客殿に安ず。また薬師の像一軀あり。もと東黒川小黒川分の地薬師堂河原にありしを寛文中(1661年~1673年)にの寺に移せりという。
寶物
  • 五大明王画像 一幅。空海筆といい伝う。

諏訪四谷(すはよつや)

桂林寺の南端より郭内諏訪神社の後外隍(そとぼり)()ひ屈折して融通寺町に出る小路なり。
長3町14間、家数22軒。
この地昔は諏訪神社の境内なり。文禄中(1593年~1596年)外郭の隍を堀切し時土居を囘らし郭外に属せしが今に諏訪神社の界域とす。昔よりこの町にて死せるものあれば相聚りてその家を(たす)け葬器など自らもちて葬を送る。中程に小路ありて北の方赤井丁に出つ、その東に士屋敷5軒あり(東黒川八角分の地雑はれり)。



赤井(あかい)

諏訪四谷の北に並び、桂林寺町より西の方融通寺町にゆく道なり。
長3町14間余、家数48軒。
この地葦名盛氏の臣赤井因幡が郎等どもの居し(ゆえ)この名あり。また西光寺の境内に家数23軒あり窪内(くほのうち)という。

専福寺蹟

この町の北頬にあり。寛文中(1661年~1673年)餌指(えさし)町に移せり。

寺院

西光寺

この町の北頬にあり。
或は窪寺と称す。相州*14藤澤清浄光寺の末山時宗なり。山號を平等山という。祖師一遍第30世の法嗣遊行他阿弥が草創なり。縁起を案ずるに永禄9年(1566年)他阿弥本州に来り蘭若を開んとて地を葦名盛氏に請ひ同年この道場を創む。もと大町にあり後にここに移る中ころ災に罹りて古記烏有(うゆう)し事実の詳なることを知らず。
客殿
9間に7間、南向き。本尊三尊弥陀。
地蔵堂
境内にあり。4間に3間。
寛延元年(1748年)結縁のため諸人の請に応じ江戸囘向院に於て開帳す。霊験ありしにより竹姫君より斗帳ならび挑燈(ちょうちん)を賜はる。また地蔵ならび二童子の画像一幅あり今に於て日限地蔵と称し人の帰依多し。
熊野宮
境内にあり。

当麻(たいま)

桂林寺町の西に並び、南は赤井丁より北は大和町に続く。
長2町45間余・幅4間、家数78軒。
往古この町に当麻山東明寺ありし(ゆえ)このなありとぞ(大町東明寺の演技にはこの事伝えず)。

神社

白山神社

祭神
創設 不明
この町の西頬にあり。
滝沢町修験南岳院司なり。社の傍に南岳院が宅趾あり。明和5年(1768年)滝沢町に移りこの地を本山派修験の墓所とせり。

大和(やまと)

当麻町の末に続き、長4町33間・幅4間余、家数80軒。
町末より西に折れて高久組諸村にゆく道あり。ここより11町59間、中明村に界ふ。この町葦名盛氏の時佐瀬大和が郎等どもを置し所(ゆえ)この名あり(赤岡分の地雑れり)。

寺院

金剛寺

この町の西頬にあり。
金剛寺

大安寺

町末にあり。
五之町高巖寺の末山浄土宗なり。念法山と號す。
文禄3年(1594年)岌正という沙門草健す。
本尊弥陀客殿に安ず。

光明寺

この町より高久組にゆく道の北頬にあり。
永禄元年(1558年)慶了という僧草造す。初は郭内五之丁にあり(今その所を詳にせず)。天正9年(1581年)ここに移れり。浄土真宗西本願寺の末寺なり。
本尊弥陀客殿に安ず。
太子堂
境内にあり。

融通寺(ゆつうじ)

融通寺町口の郭門を出て北にゆき通なり。末は西名子屋に続く。
長3町9間余・幅4間、家数94軒。
そのかみ今の大町融通寺この地に在し(ゆえ)町名となれり。町の中程より南の方に半兵衛町に出る小路あり。

寺院

城安寺

この町の西頬にあり。
融通寺の末寺浄土宗なり。小舘山と號す。即融通寺の旧地なり。
文禄元年(1593年)融通寺の僧文譽大町に移りしときその徒弟をして住せしめ城安寺と名け相続て今に至る。
本尊弥陀客殿に安ず(融通寺の条下に照し見るべし)。
観音堂
境内にあり
稲荷神社
同上
寶物
  • 幽霊掛軸 一軸。蒲生秀行の乳母の像なりという。その頃はこの寺に住持もなく覺夢という道心者住しけるが彼乳母ゆかりやありけん。兼て身後の事を託しおけり。然るに乳母(そし)(り)に()(っ)て秀行の母堂に罪を得刃に罹て死せしかば遺言に任せてこの寺に葬りしに妄執()れざりしにやこの女の幽霊昼夜となく寺中に現はる。因て絵師をして画せしめしという。今もこの画を見るものは必(わざわ)(い)ありとて(みだ)りに見ること許さず。
  • 大般若経 一巻。光明皇后の御筆という。官醫(かんい)松本善甫寄付なり

旧家

久右衛門

この町に住める蝋燭掛なり。先祖を星久右衛門宗義といい慶長6年(1601年)蒲生家再封の時商家一軒の諸役を免除せられしより世々ここに住し相続て7世の久右衛門義章に至るという。家に蒲生家の文書の写あり。左に載す。
當町蝋燭掛三拾人之事如前々町諸役被成御免候條有其心得可被申聞恐々謹言
             町野左近助 判
  後霜月廿八日     岡半兵衛尉 判
      河野九朗左衛門殿
      石岡所左衛門殿
          御宿所

西名子屋(にしなごや)

融通寺町の末に続き赤井丁の角より北の方七日町に出る通なり。
長5町23間余・幅4間、家数84軒。

寺院

長命寺

秀翁寺

この町の西頬にあり。
針西山と號す。大町融通寺の末山浄土宗なり。
文禄2年(1594年)良善という僧越州*15より来たり建立すという。
本尊三阿弥陀客殿に安ず。

興性寺

この町の西頬にあり。
東本願寺の末寺浄土真宗なり。
永禄2年(1559年)願明という僧開基し光性寺と號せしを後改て興性寺に作る。初は善久町にあり、元禄6年(1693年)ここに移す。
本尊阿弥陀客殿に安ず。
寶物
  • 弥陀影像 一幅。本山第9世實如の裏書あり。文字消て明ならず。
  • 蓮如影像 一幅。慶長19年(1614年)免許12世教如の裏書あり。

当麻中(たいまなか)

当麻町より西に折れ末は西黒川分に通す。
長1町48間・幅4間、家数32軒。
当麻町より別るる通(ゆえ)この名あり。またこの町の中ころより善久町を経て針屋に出る小路あり。中町といい長1町42間、家居1軒(小黒川分の民居なり)。この町の末に続くを家風(けふう)といい、家数2軒。

寺院

長泉寺

この町の南頬にあり。
珠得山と號す。大町東明寺の末山時宗なり。
相伝う、東明寺の中興文峯というもの慶長2年(1597年)にこの寺を建立して退隠の地となさんとせしに明年上杉景勝封に就て眷顧厚かりしかばその旨を請う事を得ず弟子權宗に命じて假に住せしめ同6年(1601年)文峯景勝に随て米沢に移り同12年(1607年)当寺に帰隠し間もなく遷化せり。因て文峯を開山とし權宗を第2世に列すという。
本尊弥陀客殿に安ず。

正蓮寺

この町の北頬にあり。
東本願寺浄土真宗なり。天正元年(1573年)了善という僧本願寺に至り寺號と本尊とを受け地を領主に請て一寺を草創す時に城西河原町にあり(舊事雑考 文禄元年(1593年)の記によれば当寺もと材木町にありしと見ゆ)後今の地に移せり。
本尊弥陀客殿に安ず。
寶物
  • 弥陀影像
  • 蓮如影像

大運寺

正蓮寺の西に並べり。
廣博山と號す。江戸増上寺末山浄土宗なり。元和3年(1617年)寂譽という僧草創す。
本尊弥陀客殿に安ず。

針屋(はりや)

善久町の北に並び、長2町47間・幅3間余、家数57軒。
そのかみ針屋小路と称す。針工多く住せし(ゆえ)名くという。

寺院

西蓮寺

この町の北頬にあり。
京師東本願寺の末寺浄土真宗なり。天正2年(1574年)幽善という僧本願寺に至り本尊ならび寺號を請受け帰て当寺を開く。
本尊弥陀客殿に安ず。
寶物
  • 親鸞影像

見性寺

西蓮寺の西に並べり。
山號を願求山という。元和5年(1619年)七日町阿弥陀寺の僧良然が開基にて即彼寺の末寺浄土宗なり。
本尊弥陀客殿に安ず。
観音堂
境内にあり

旧家

吉田甚蔵

その先を甚左衛門某といい世々鍛冶を業とし鎖を製す。天正18年(1590年)蒲生氏郷当郷に封せられしより相続て加藤家の時に至るまで口量を扶助せらる。当家就封の後中絶せしが甚左衛門より8世今の甚蔵明吉に至り廃したるを再興せり。因て月俸を与て家人の列に次せしむ。

善久(ぜんきう)

当麻中町の北に並び、長42間・幅3間余、家数31軒。
葦名家のころ佐瀬大和が名子(名子とは方言に譜代の男女別宅して世を渡る者をいう)の者居し(ゆえ)大和名子屋町と称ひしが光法院を善叶(ぜんけふ)寺と號せし故中頃より叶善町と呼びしを後善久に改む。

寺院

法光院

地蔵山と號す。大和町金剛寺の末寺真言宗なり。舊事雑考 文明元年(1469年)の記に密徒宥尊黒川に地蔵山善叶寺法光院を建とあるはこれなり。
本尊地蔵客殿に安ず。
地蔵堂
境内にあり。霊験ありて事を祈るに善叶ひしとて世人叶地蔵という。寺号これに因とぞ。
最終更新:2022年10月15日 17:15
添付ファイル

*1 伊勢国。現在の三重県

*2 出羽国。現在の山形県と秋田県

*3 筑紫国。現在の福岡県の一部

*4 石見国。現在の島根県西部

*5 江戸幕府の認可を得て秤の製造・販売を独占し検定を行なった座

*6 幕府訴訟制度の一系統で、刑事上の罪を検察・断罪すること

*7 ヒキガエル

*8 戦争に関わること

*9 高徳のすぐれた人物を龍と象にたとえたことば

*10 藍で布を染めること。それを業とする者

*11 まったく無いこと

*12 京の都

*13 注:永正14年(1517年)は丁丑。永正4年(1507年が)丁卯なので銘のどちらかが間違っている可能性あり

*14 相模国。現在の神奈川県

*15 越後国、越中国、越前国の総称