この村元和の頃(1615年~1624年)までは長橋村という。その後いつの頃にか今の名とす。
府城の西南に当り行程2里5町余。
家数20軒、東西1町・南北3町17間。
下野街道を挟み、北は高倉山に近く三面田圃なり。
東2町55間
本郡南青木組大石村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り24町40間余。
西8町33間
橋爪村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り17町。
南1町25間・北30間、共に
本郷村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り4町30間余。
また
未(南南西)の方10間
八重松村の界に至る。その村まで8町。
未申(南西)の奉3町47間
田蠃岡村の界に至る。その村まで12町。
この村もとはここより西1町にあり。元和6年(1620年)ここに移して市場とす。いくほどなくて市も止しとぞ。その時蒲生氏より与えし文書あり。左に出す。
定
大ぬまこふり長橋村新宿に市相立候 毎月四日 九日 十四日 十九日 廿四日 廿九日にまかり出商売可仕者也
元和七年二月六日 本山豊前守
福西吉左衛門
外池信濃守
稲田数馬助
山川
高倉山
村北1町にあり。
高56間余・周11町余。
田畝の中に突出し他山につづかず。
形状まとかなるゆえ土人丸山と称す。
西南麓に周7間・高4尺計の塚3あり。
千代和泉というもの千部の法華経を埋めし所という。
火玉川
村西3町にあり。
田蠃岡村の境内より来り、高倉山の西麓にて
大堀に合し、北に流るること凡8町40間余
橋爪村の界に入る。
関梁
橋
村西3町、下野街道の別路火玉川に架す。
幅1間・長5間半。
神社
熊野宮
村西3町20間にあり。
鳥居拝殿あり。本郷村宗像出雲が司なり。
寺院
観音堂
高倉山の東南の半腹にあり。
会津三十三所順禮の一なり。
創建の年代詳ならず。
昔はこの山の西麓にあり。正保年中(1645年~1648年)西南の山足に移し、その後またこの所に移せり。
石階を登ること200余級、本堂の四邊は青松環列し、清風の響断る時なく高敞にして限界
頗る広し。
もとはこの村延命寺の僧別当を勤む。彼の寺廃してより府下
河原町修験盛壽院これを司る。
旧家
文右衛門
この村の肝煎なり。
先祖は千代和泉守とて世々この村に住し多くの田地を耕作せる豪富なり。
和泉守常に我家収穫せる稲穂は高倉山を葺えしといいしとぞ。
その人となり質素にて生産の業怠ず。
永禄年中(1558年~1570年)葦名盛氏本郷村向羽黒山に城を築きて移れり。
その後天正の始にや。
和泉盛氏に請けるは臣が栄華の花見せ奉るべし願わくは駕を枉たまえとて田間に假屋をうち盛氏を迎う。盛氏興ある事に思い日を卜して和泉が許に行向かう。満目みな稲田にて花の観るべきなし。盛氏あやしみてこれを問う。和泉謹て答えけるは、君の目前の稲花は即臣が英華の花なりと。盛氏掌を撫て賞歎し歓を罄して帰る。これより盛氏の眷願大かたならず。数馬をあたえ登城することを許すという。
その子七郎後また和泉守と称す。
天正17年(1589年)葦名氏亡て後政宗に謁す。政宗また馬をあたえて南山の地を意にまかせ遊賞せしむ。
その時の文書今旧家に蔵む。即左に録す。
当時の文右衛門に至るまでの世次を伝えず。
寶物
鷹画 1幅。葦名盛氏のあたえしものという。
馬具 朽損して全からず。また盛氏のあたえしものとぞ。
古文書 1通。その文如左
右南山領中の間貳疋貳駄の役所御免に候
千代和泉守出之者也如件
天正十七年巳丑(花押)九月吉日
古蹟
延命寺跡
村北3町にあり。
真言宗東川山と號し開基の年代知らず。
観音堂の別当なり。
何の頃にか廃すという。
最終更新:2025年06月26日 22:25