大沼郡南青木組大石村

陸奥国 大沼郡 南青木組 大石(おほし)
大日本地誌大系第33巻 6コマ目

府城の南に当り行程1里3町余。
家数52軒、東西1町30間・南北5町40間。
東は鶴沼川に()ひ西は山に倚る。

東1町30間会津郡本組下雨屋村に界ひ鶴沼川を限りとす。
西8町本郡橋爪組相川村の山界に至る。その村まで13町20間余。
南12町30間穂谷沢村に隣りその村際を界とす。
北8町30間本郡橋爪組本郷村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り21町40間。

端村

大門(たいもん)

本村の南8町にあり。
家数15軒、東西1町20間・南北1町。
東は鶴沼川に臨み西は山に倚る。

柳窪(やなきくほ)西光(さいくわう)

柳窪は本村より戌亥(北西)の方13町余にあり。家数10軒、東西1町・南北1町。西は田圃(たんぼ)にて三方は山に倚る。
西光は柳窪の戌亥(北西)の方1町余にあり。家数10軒、東西50間・南北1町30間。東は山に倚り西は田圃(たんぼ)なり。
共に本郷村の境内を隔て本村の地に続かず。
地面、東西12町39間・南北53間。東北は共に本郷村に続き、西は本郡橋爪組大八郷村に隣り、南は相川村に界ふ。

山川

戸沢山(とさわやま)

村より未(南南西)の方2里計にあり。
高20丈計。南は会津郡小出組芦牧村の山に連なる。

鶴沼川(つるぬまかわ)

村東1町余にあり。
穂谷沢村の境内より来り、北に流るること25町余本郷村の界に入る。

原野

左下原(さくたりはら)

端村大門の西山麓にあり。
東西7町・南北1町20間余。

水利

窕堰(うつろせき)

穂谷沢村の方より来り、田地に灌ぎ相川村の方に注ぐ。
慶長2年(1597年)高橋徳元という者家資を費して穿しとぞ。

村より未申(南西)の方20町余にあり。
東西86間・南北65間。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
村北にあり。
この社もと山上にあり。佐原義連人民の参詣に便ならずとて、今の所に遷し1寺を草創し別当の住所とせしという。即今の別当神宮寺なり。
また葦名氏寄付の社領ありしを、蒲生氏の時失うという。
鳥居あり。

天神社

境内にあり。

別当 神宮寺

本社の南にあり。
熊野山と號す。郭内延壽寺の門徒天台宗なり。
佐原義連草創なりという。

寺院

観音寺

端村大門の西8町余山上にあり。
巨岩を鑿開し結構せし三層閣なり。
5間四面・高4丈8尺、東向。庇縁・勾欄あり。
春日に登臨すれば山水の賞乏しからず。
石像の秘仏にて俗に無頸観音という。
縁起に、天長7年(830年)空海が建立なり。
延長の頃(923年~931年)越後国何某という者(そしり)を避けてこの地に来り、道中に身を潜め切に観音の力を念じ居たり。やがて諸卒逐来り搦捕て岩上にひきすえ頸切て(今堂の側に頸切岩あり)本国に持帰り主に見せしに件の男にはあらて観音の石頸なりければ、人挙て奇異の思をなし彼の地に1宇を造営し水月道場と名け観音の頸を安置しその地を頸城郡と名くとあり(延長より前既に頸城郡あれば縁起に載する所不審)。
その後延文3年(1358年)葦名氏の臣富田将監祐義という者修理を加えしという。

別当 観音寺

本堂の東山下にあり。
臨済宗左下山と號す。府下五之町實相寺の末寺なり。
延文3年富田祐義が開基なりという。祐義が法名なりとて雄心一英居士としるせる霊牌あり。

寶物

銅板 1枚。長5寸5分・幅2寸5分余。
両面に彫付けあり。その文如左。
 左下観音縁起天長七年四月十四日
 弘法大師開山延長二年三月十三日
 号無頸観音延文三年八月供養創建
 禅院 大檀那富田祐義藤原氏女法名
              浄仙
          奥行比丘慈昭
 永享八年九月十七日前立聖像并不動毘沙門
 造立供養同十年十月七日三十三身
 并達广大帝造立供養勧請比丘玄明明珎
 依造立玄明衣食旦那平朝臣沙岊
           同氏女桂正
 自天長七年永享十年凡六百十年

古蹟

西光寺跡

端村西光の地なり。
時宗供来山と號す。
昔葦名盛氏岩崎に城郭を構えし時創建して祈願所とす。
後府下大町に移るという。


最終更新:2020年04月06日 09:43