この村旧20町東山間にあり。慶長16年(1611年)自身にて山崩れ地埋もれしにより今の地に移すという。
府城の西南に当り行程4里26町。
家数5軒、東西50間・南北42間、深山の中に住す。西は川に臨めり。
境地極めて幽僻にして明神嶽の北の半腹なれば、嵐気常に甚く種殖の利最少し、炭を焼き薪を売て生計の助とす。
またこの村雪深く冬春の際往々人の往来なし。
東16町
松沢・
荻窪両村の界に至る。松沢村は丑(北北東)に当り1里7町、荻窪村は寅(東北東)に当り1里8町。
西30町計・北18町、共に
高田組軽井沢村の山に界ふ。
南15町計
冑組菅沼村の山界に至る。その村は巳(南南東)に当り17町。
山川
雷電岩山
村より申(西南西)の方6町計にあり。
明神嶽の峯に続き西北に引たる山にて岩
峙ち攀べき途なし。
西は
瀧谷組鳥屋村の山に連なる。
蛇食川
村西1町余にあり。
源は明神嶽の北より出、丑(北北東)の方に流るること30町余
赤留村の界に入る。
広2間計。
水利
品窪堤
村東20町にあり。
慶長中(1596年~1615年)の地震に地裂け水湧出て沼となる。後修築して堤とす。
東西100間・南北28間。
荻窪村・冑組松岸村の田地に漑ぐ。
神社
山神社
村より辰巳(南東)の方1町山腰にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。
昭和三十五年、馬場家の離村により廃村
蛇喰地区
字名:川向・南沢・堂ノ下・谷地・品窪・家ノ前・檀ノ蔭・道下
※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)
(町史より)
村の南西600mほどに雷電岩山がある。明神ヶ岳の峰に続き北西にのびる険阻な山で、鳥居山に連なっています。
雷電岩山は、明神ヶ岳の北西にある標高1032mの山の事か?
※地理院地図
また、
永井野組の記述にもある「曲炬燵」について町史に記載があるので引用します。
文化が途絶えてしまった事は残念です。
特産の曲炬燵については、文化四年(1807)の「永井野組風俗改帳」に「火燵拵」とあり、「これは生木を曲て拵える火燵で、蛇喰村だけのものである。雪深く外の仕事が出来ないので、その間村挙げて造り、高田・若松の市場に売り出す」旨の記述がある。また同書には、「熊ヲ取候事ハ……」で始まり、熊の習性、鉄砲の撃ち方、槍の使い方や捕え方などを詳述した珍しい記録で、「但シ此熊ヲ取ル事ハ蛇喰村計リニ御座候」と続く一文が目をひく。猟の規制があったことを裏付け、天保十年の「永井野組八ヶ村御手鑑」にはこの村の猟師鉄砲一挺、預り人茂八の名が見える。
明治41年の
最近會津旅行地圖に西本~蛇喰~四谷ルートの記載があります。明神嶽の登山ルートか何かだったのでしょうか?
新潟県岩船郡関川村にも
蛇喰という村があったそうです。そちらには
大里峠の大蛇伝説という伝承が残っています。
最終更新:2025年08月11日 17:44