大沼郡永井野組蛇食村

陸奥国 大沼郡 永井野組 蛇食(しやはみ)村(蛇喰)
大日本地誌大系第33巻 32コマ目

この村旧20町東山間にあり。慶長16年(1611年)自身にて山崩れ地埋もれしにより今の地に移すという。

府城の西南に当り行程4里26町。
家数5軒、東西50間・南北42間、深山の中に住す。西は川に臨めり。

境地極めて幽僻にして明神嶽(みやうじんがたけ)の北の半腹なれば、嵐気常に甚く種殖の利最少し、炭を焼き薪を売て生計の助とす。
またこの村雪深く冬春の際往々人の往来なし。

東16町松沢荻窪両村の界に至る。松沢村は丑(北北東)に当り1里7町、荻窪村は寅(東北東)に当り1里8町。
西30町計・北18町、共に高田組軽井沢村の山に界ふ。
南15町計冑組菅沼村の山界に至る。その村は巳(南南東)に当り17町。

山川

雷電岩(らいでんいは)

村より申(西南西)の方6町計にあり。
明神嶽の峯に続き西北に引たる山にて岩(そばだ)ち攀べき途なし。
西は瀧谷組鳥屋村の山に連なる。

蛇食(しやはみ)

村西1町余にあり。
源は明神嶽の北より出、丑(北北東)の方に流るること30町余赤留村の界に入る。
広2間計。

水利

品窪(しなくぼ)

村東20町にあり。
慶長中(1596年~1615年)の地震に地裂け水湧出て沼となる。後修築して堤とす。
東西100間・南北28間。
荻窪村冑組松岸村の田地に(そそ)ぐ。

神社

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
村より辰巳(南東)の方1町山腰にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。


外部リンク等


蛇喰地区について

昭和三十五年、馬場家の離村により廃村

地理
字名:川向・南沢・堂ノ下・谷地・品窪・家ノ前・檀ノ蔭・道下
※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

(町史より)
村の南西600mほどに雷電岩山がある。明神ヶ岳の峰に続き北西にのびる険阻な山で、鳥居山に連なっています。
雷電岩山は、明神ヶ岳の北西にある標高1032mの山の事か?
※地理院地図

曲炬燵
また、永井野組の記述にもある「曲炬燵」について町史に記載があるので引用します。
文化が途絶えてしまった事は残念です。
特産の曲炬燵(まげごたつ)については、文化四年(1807)の「永井野組風俗改帳」に「火燵(こたつ)拵」とあり、「これは生木を曲て(こしら)える火燵で、蛇喰村だけのものである。雪深く外の仕事が出来ないので、その間村挙げて造り、高田・若松の市場に売り出す」旨の記述がある。また同書には、「熊ヲ取候事ハ……」で始まり、熊の習性、鉄砲の撃ち方、槍の使い方や捕え方などを詳述した珍しい記録で、「但シ此熊ヲ取ル事ハ蛇喰村計リニ御座候」と続く一文が目をひく。猟の規制があったことを裏付け、天保十年の「永井野組八ヶ村御手鑑」にはこの村の猟師鉄砲一挺、預り人茂八の名が見える。
町史の他、帝国地名辞典 上巻の「じゃはみ(蛇喰)」の項にも説明があります。
この曲炬燵どのようなものだったかは図が残っていないので不確かですが、「図説会津只見の民具(福島県只見町史資料集 ; 第1集)」に原型となる「コタツヤグラ(炬燵櫓)」の記載がありましたので添付します。

蛇喰の正月
この村には「塞の神」の行事はない。昔、十一軒あった集落が、この火祭りによって、二軒を残し全焼してしまったからだと伝えられている(馬場正談)。また、盛んに火を焚くことを俗に「蛇喰の正月」といわれるが、これは雪に埋もれ、夜も昼も分からぬままに過ごし、ある日里に出てみたら、その日が正月だといわれ、慌てて村に戻り、その準備や煮炊きに村を挙げて盛んに火を焚いたことが語源だと古老は伝えている。

その他
  • 明治41年の最近會津旅行地圖に西本~蛇喰~四谷ルートの記載があります。明神嶽の登山ルートか何かだったのでしょうか?
  • 新潟県岩船郡関川村にも蛇喰という村があったそうです。そちらには大里峠の大蛇伝説という伝承が残っています。
最終更新:2025年08月12日 20:39