大沼郡永井野組松沢村

陸奥国 大沼郡 永井野組 松沢(まつさは)
大日本地誌大系第33巻 32コマ目

この村に松澤寺あり。因て村の名とす。

府城の西南に当り行程3里18町。
家数17軒、東西1町25間・南北50間、西南は山に倚り東北は田圃(たんぼ)なり。

東7町22間余上戸原村の界に至る。その村まで14町50間余。
西1里24町計高田組軽井沢村の山に界ふ。
南3町18間荻窪村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り7町30間。
北4町1間余赤留村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り12町50間余。
また
申(西南西)の方28町蛇食村の界に至る。その村まで1里7町。

小名

南松沢(みなみまつさは)

本村の南1町30間にあり。
家数14軒、東西2町・南北25間、三方山(めぐ)り北に菜圃(さいほ)あり。

山川

(まへ)

南松沢の南にあり。
村西山中の諸渓往々流を合し、巳(南南東)の方へ流るること2町30間荻窪村の界に入る。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
村より申(西南西)の方1町30間にあり。
鳥居拝殿あり。八木沢村横山佐仲これを司る。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
村より申(西南西)の方4町30間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

白山神社

祭神 白山神?
相殿 稲荷神
勧請 不明
村西1町40間余山麓にあり。
松澤寺司なり。

寺院

松澤寺

村西1町40間余山麓にあり。
山號を寶珠山といい、越後国村上耕雲寺の末山曹洞宗なり。
永亨中(1429年~1441年)肅芳という僧創建し、第2世大應・第3世三室が時までは松本圖書・同實輔(この人の名詳ならず。舊事雑考には伊豆實輔といい圖書が父とし、またこの父子当寺を建立せしという)父子100貫文の寺領を寄付し、第4世盛庵が時天正18年(1590年)伊達政宗3貫文の地を寄付せしという。

客殿

8間に6間、南向き。
本尊釈迦。

寶物

古文書 1通。その文如左。
松澤寺々領うち門前八人の手作
三貫文の所さきわけ山屋敷差
添付置候永代不可有相違者也
仍證文如件
 天正十八年庚寅四月十四日 政宗(印)
    松澤寺
松本圖書父子画像 1幅。
左は父圖書像なり『徳巖源裕居士』としるし、右は子實輔像なり『活正照殺居士』としるす。中央に当寺開基とあり。縁起に載る所と異なり。舊事雑考これに因れり。
寛文の頃(1661年~1673年)までは父子の塔当寺にありしよし縁起に見ゆ。今の石塔は法名年月等誤あり。後人の伝合せしものなり。

墳墓

五輪1基

村南2町にあり。
高3尺6寸『大永二年六月十七日』と彫付けあり(大永2年:1522年)。外に文字あれども剥落して読べからず。
塔村名主治右衛門が先祖佐藤筑後某という者の墓なりという。



松沢の神社

(町史より)
鎮守熊野神社は、伊邪那美尊・速玉男命・事解男命三神を祭神とし、松沢寺参道石段の右奥に祀られ、祭礼は五月二日、手児神社神官生田氏が司る。鳥居・拝殿があり、鎮座の年月は不詳。この先に代々名主を勤めた佐藤家が管理している稲荷神祠があり、その奥には白山神社の小祠がある。また、松沢寺の裏山を登りつめた所に雷神社の石祠があって、七月二十一日には村を挙げての祭礼が行われる。また、各地にある山神の殆どが損なわれている中にあって、ここ南松沢にある山神(大山祇命)は今なお厳として石の鳥居とspれに続く石段、石畳の参道を要し、磨かれた鈴をつけた本殿(大石祠)があって、ひときわ異彩を放っている。
そのほか、南・北両松沢の中ほどに、大永ニ年(1522)六月銘の五輪塔が二基あるが、これはこの村の名主次右衛門の先祖で、佐藤筑紫守夫妻のはか(『新編会津風土記』)といわれ、その横に子孫の佐藤(やどる)清則(きよのり)の功績を讃えた顕彰碑が建っている。

松沢寺に伝わる幽霊掛軸

(町史より)

松沢寺は平成三年、三九世横山正禅和尚が没してから寺は無住となったが、その後永井野長福寺が管理し、「寄進状」・「父子像図」・「幽霊掛軸」なども同寺で保管している。

なお、「松沢寺の幽霊(会津永井野の民俗)」にはおじゅんという幽霊の掛軸とそれにまつわる話が記載されている。
松沢寺の住職の話によると、昔おじゅんという長者の娘がいた。おじゅんは婿をもらって、お腹に一人の子供をもうけた。ところが夫はまもなく若くしてこの世を去った。当時は結婚期が十七、八であるから、この夫が死んだのは二十五、六才位であろう。おそらく、酒の飲み過ぎが原因だと思われる。
おじゅんは、夫を亡くした悲しみのあまり放心状態となり、見るに見かねた和尚は、秀可長老を留守番に残し、院へおじゅんを入れて看病をはじめた。やがて、おじゅんは回復に向かったが、今度は和尚が看病疲れからか体の具合を悪くしてしまった。その知らせを聞いた秀可長老は、和尚を訪ね院へ向かい、おじゅんと共に和尚の看病に勤めた。
何日かが過ぎ、和尚の体の具合も良くなったので、秀可長老は和尚と共に寺へ帰ることとなった。おじゅんは、是非一緒に寺へ連れていってほしいと頼んだ。しかし当時その寺は戒律も厳しく、女人禁制であったため、和尚も秀可長老も、その申し出を断っておじゅんを実家の長谷川田佐衛門のところへ帰した。しかし、おじゅんはやはり、秀可長老の弟子になりたいという気持ちのままに寺へ向かうことになる。
ある日、秀可長老が山門へ出てみると、お腹を大きくしたおじゅんが寺訪ねてきていた。秀可長老は、これは大変なことになったと思った。おじゅんが普通の体であれば、すぐにでも人をつけて、家に送り返せばよいが、こんな大きなお腹でそうもいかない。そこで秀可長老はおじゅんに、ほとぼりがさめるまで、平常は山門の外に出ないこと、誰かが来たら部屋へひっこむことを固く約束させて、おじゅんをしばらく寺に置くことにした。当時この村は貧乏で、寺の裏山をみんなで使って山仕事をして生活していた。また、この村は若者が少なく、ましてや若い女性などほとんどいなかった。そして、不思議もので大自然の山中を若い女性が歩くと、その匂いがしみ込むである。村の人々は、若い女性が山の中を通ったということを化粧の匂いで感じ取った。村の人々は、和尚が若い女性を寺に住まわせていると騒ぎはじめた。そこで村の総代は秀可長老に、村人のうわさが事実かどうか聞きただした。はたして、うわさは事実であった。それでは寺にもおじゅんにも傷がつくということで、おじゅんは長谷川田佐衛門の家へ送り返された。どころが、それが不幸招いたのである。何十里も道を、山を越え、谷を越えて歩くことは、身重でおじゅんにはたえたのである。その疲労が重なり、おじゅんは子癎にかかってあえない最期をとげてしまったのである。
おじゅんの葬式が行なわれてから、また何か月かが過ぎた。秀可長老が、ある日要用から帰ってくると、山門に幽霊があらわれた。幽霊は、「私のこの姿を見て下さい。私は地獄に落ちて、さまざまの苦しみを受けています。どうか私を救って下さい」と言った。秀可長老は本空論を唱え、「あなたの体は仏と変わりがない。安心して成仏しなさい」と説いて聞かせると、幽霊は本空論をすばやく悟って、「ありがとうございます。では、私に戒名をつけて下さい」と言ったので、秀可長老は、「それでは、あなたは本空論がわかったのですから」と言って、本空禅尼という戒名をつけてやった。秀可長老はその後、その幽霊を絵に残そうと、何度となく書き直し、やっと書きあげたところ、あの幽霊はおじゅんの幽霊であったということに気がつき、それから厚く供養したということである。
その後、松沢寺は、幽霊が出たというので参拝者も少なくなり、一時期荒放題になった。そして六代目の和尚になって、山門を移動し、現在に至るということである。
また、この話を上戸原で聞いたところ、幽霊を見たのは、寺の坊さんで、今でも寺の裏山には幽霊穴という穴が残っているということである。
また、松沢寺には、もう一つ別幽霊の話が伝わっている。
松沢寺の和尚が、ある夜法要で出かけ、寺には小僧一人が留守番をしていた。次第に夜がふけてきたが、和尚はなかなか帰ってこなかった。小僧は一人でいるのがだんだん心細くなり、ただ和尚の帰りをひたすら待ち続けた。それからどのくらいたっただろうか、小僧は土間のあたりになにやら人の気配を感じた。小僧は、夜着の左袖から、こわごわ土間の方をのぞいてみた。すると、土間には、一人の幽霊が立っていたということである。その幽霊は、赤留山を越えたところの中野山で死んだ人の幽霊であるということである。それから、この地方では左袖を嫌うようになったという。


余談

町史によると、赤沢川の上流にかつて「松沢の湯」という湯治施設があったようです。
最終更新:2025年08月12日 17:08
添付ファイル