大沼郡永井野組八木沢村

陸奥国 大沼郡 永井野組 八木沢(やぎさは)
大日本地誌大系第33巻 33コマ目

この村、旧矢木沢と書けり。寛文中(1661年~1673年)改めて今の文字とす。

府城の西に当り行程2里18町余。
家数124軒、東西2町40間・南北13町20間、散居す。
西は山に倚り三方田圃(たんぼ)なり。

東6町4間高田組高田村に界ひ赤沢川を限りとす。その村は辰(東南東)に当り21町余。
西30町余高田組逆瀬川村の山に界ふ。
南5間余赤留村の界に至る。その村まで3町20間。
北1町45間高田組雀林村の界に至る。その村まで5町30間余。
また
寅(東北東)の方7町20間高田組寺崎村に界ひ赤沢川を限りとす。その村まで9町50間余。

小名

沖在家(おきのざいけ)

本村より寅(東北東)の方8町にあり。
家数5軒、東西1町・南北45間、四方田圃なり。

山川

赤沢川

村東6町余にあり。
赤留村の境内より来り、北に流るること15町20間寺崎村の界に入る。

古方沼(ふるかたぬま)

村より戌(西北西)の方27町、山奥にあり。
雀林村の地に跨れり(雀林村の条下に詳なり)。

原野

大門原

村西1町50間にあり。
東西30間・南北2町。
芝原にて秣を採る。

土産

単席*1

八木沢表とて近村よりも出す。
上品の物にあらざれども民用に便あり。

水利

村南赤留村の境内にて赤沢川を引き、この村の田地を潤し下流雀林村の方に注ぐ。

堤2

一は村西4町10間にあり。
東西50間・南北26間。
足洗沢(あしあらひさわ)堤という。
明暦元年(1655年)に築く。

一は村より戌(西北西)の方27町山中にあり。
目闇谷地(めくらやち)堤という。
東西138間・南北35間。
鷹打場(たかうちは)という山ありて、麓を西より東へ140間余堀抜て水を通す。

神社

白幡神社

祭神 八幡宮?
相殿 伊勢宮
稲荷神
熊野宮
山神
聖神
雷神
東宮
鎮座 不明
村西4町10間余山腰にあり。
石鳥居幣殿拝殿あり。

神職 横山佐仲

父を大和依弟という。寛政中(1789年~1801年)当社の神職となる。

白山神社

祭神 白山神?
相殿 諏訪神
富士神
山神
天神
鎮座 不明
村より戌亥(北西)の方5町10間余にあり。
石鳥居あり。横山佐仲が司なり。

西宮神社

祭神 蛭児神(ひるこかみ)
鎮座 不明
村中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。横山佐仲が司なり。

三島神社

祭神 三島神?
相殿 稲荷神
鎮座 不明
村より申(西南西)の方7町余にあり。
鳥居あり。横山佐仲が司なり。

山王神社

祭神 山王神?
鎮座 不明
村東5町30間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

福泉寺

村中にあり。
天台宗三台山と號す。雀林村法用寺の末寺なり。
開基詳ならず。
旧は村西権現堂山という処にありて曹洞宗なりしが、何の頃にかこの地に移すという。
妙圓という僧住せし時慶長8年(1603年)回禄に罹り伝記を失す。因て妙圓再建す。
当寺往昔は府下五之町實相寺に隷せしにや。貞治5年(1366年)にその事を記せし文書の写し實相寺にあり(實相寺の条下を照し見るべし)。
本尊弥陀客殿に安ず。

薬師堂

境内にあり。
往古權現堂山にありし時より堂あして、安せし薬師佛なりとぞ。
長3尺7寸、座像なり。
相伝て、行基の作とす。
また十二神将の像をも安ず。



余談

(町史より)
JA会津みどり赤沢支所の南にあるいくつかの石碑の中に、聖徳太子を祀った小祠がある。太子信仰の深かった時代に堂を建てたのであろうか。現在も太子堂東の字名がある。
大門の地名は、雀林との境に一寺があったからだろうという古老もいるが、平成の圃場(ほじょう)整備事業に伴って発見された多くの遺構などから推測して、法用寺全盛時代に関係する名と考えるのが妥当であろう。
舘脇集落の真西約四〇〇mには山の上から移した馬頭観音を祀るお堂があり、五月八日に寺行事を行う。前々日の夕方村東に大きな(のぼり)が立てられ、当日は善男善女(ぜんなんぜんにょ)の参詣で賑わう。福泉寺集落のなかの通称カゴ(加護か)の西に、(いぼ)観音堂がある。昔は疣沢にあったという。疣で悩む者が、豆腐を供えて祈ると卓効(たっこう)があると伝えられ、近在から参拝に訪れる。近年四月二十一日を祭礼日と定め、講中の者が堂前に集まり花見を兼て祝宴を張る。また、村北に谷地大門の鈴木六家の守護神としての御庭渡神社(1675年に勧請)、千葉新斎家が祀る聖観音堂、大江廣一家が管理する薬師堂、谷沢浩家の鬼子母神などがある。
この地区に御庭渡神社があるようだが地図上で確認できず。
この建物か?

明治22年 八木沢の字名

(町史より)

東側、寺崎村の手前に「沖在家」の名前が見えるが、現在の地図には町田作田原の地名はあるが沖在家は見当たらない

國見神社

(町史より)
同書の白幡神社の項に、白幡八幡神社ほか四社が記されているが、今は合祀されて国見神社となっている。国見とは、村の最高峯国見山の名をとったものである。大正十年(1921)二月中に建てた合祀改築碑がこの神社の境内にある。第二師団長陸軍中将中島正式題額で、国見神社建設委員長鈴木虎千代撰並書のものである。碑文の一部を抜粋し左に写す。
前略、我八木沢の名古文に見ゆるは遠く承保貞治の昔なれとも神社の由緒は詳ならさりき(中略)寛文十二年壬六月藩臣服部安休飯田兵左衛門等始めて各社を巡り改め延宝三年四月勧請を決し次て元文寛保年間に更に神社調を受け(つい)に明治の維新に及ぶ(中略)明治四十二年只管(ひたすら)合祀せんことを企画したりしも果たさすして止みぬ余や先人の意志を敬称し大正七年九月有志と相謀りて合祀改築の必要を力説し衆議の決する所遂に村社白幡八幡神社同境外摂社西宮神社小社白山神社山王神社三島神社とを合祀して 国見神社と称へ奉り例祭を四月二十日に定め西宮神社の境内を拡け社殿と社務所とを建築する事となり(中略)大正九年十一月工事を(おわ)り十二月十一日御遷宮式を挙行し合祀の祭典を終わりぬ事業終始の日数二年三月に亘り工費総額九千余円に上り出役人夫五百余人を要し境内七百十三坪余となり(後略)
碑の裏面には寄附者の氏名と、歌二首がある。
後の世の 人につけまし 宮はしら たてしいわれを かきのこしつつ
村人の こころつくしの みや柱 千代も八千代も うこかさらまし
社務所は、神社関係者の集会所以外にも長く村の集会の場としても使用し、その後は保育所として利用していたが、老朽化のため昭和四十年代に壊した。
最終更新:2025年08月08日 20:58
添付ファイル

*1 席(むしろ):植物で編んだ敷物の事