大沼郡東尾岐組長岡館村

陸奥国 大沼郡 東尾岐組 長岡館(なかおかたて)
大日本地誌大系第33巻 38コマ目

府城の西南に当り行程3里。
家数20軒、東西1町20間・南北1町10間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東3町22間本郡橋爪組領家村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り13町10間余。
西35間池端村の界に至る。その村まで1町50間余。
南9町1間寺入村の界に至る。その村は未(南南西)に当り14町余。
北1町16間北村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り1町20間余。
また巳(南南東)の方7町43間小川窪村の界に至る。その村まで11町10間余。

小名

下平(したたひら)

この地本村よりやや卑し。因て()く名けしとぞ。
本村の北1町20間余にあり。
家数10軒、東西15間・南北20間。
四方田畠なり。

山川

前川(まへかわ)

下平の北にあり。
池端村の境内より来り、東に流るること15町計北村の界に入る。広3間余。

清水7

共に村中にあり。
周2間計より6間計に至る。
清冽(せいれつ)なり。

原野

椚原(くのきはら)

村より辰巳(南東)の方3町にあり。
4町四方、芝原にて松樹雑木茂れり。因て椚原林といいまた秣場とす。
旧椚木ありし故この名ありとぞ。

神社

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 諏訪神
鎮座 不明
村東1町30間余にあり。
石鳥居拝殿あり。寺入村佐藤日向これを司る。

寺院

舘泉寺

村中にあり。
山號を寶峰山という。天台宗冑組仁王村仁王寺の門徒なり。
開基の年月詳ならず。
木村隼人某という者建立せしという。
本尊地蔵客殿に安ず。

墳墓

村東4町菜圃(さいほ)の中にあり。
北より南に並び、中にて西に折れ都て15列れり。土人十五壇と唱ふ。
大抵高7尺余・周10間計。
伝云。何れの時にかこの地に合戦ありて戦地の者を埋し塚なりと。
或は伝う。高倉宮この地に落給いし時(高倉宮の事は越後国蒲原郡上條組東山村の条下に詳なり)、頼政の4男四郎頼兼という者従来りこの地の住人某という者に託し宮を隠しまいらせしを、城四郎資長(長茂なるべし)聞て河沼郡柳津の住人石川刑部某(本郡大谷村にも石川刑部が事を伝え、また彼が遺塁あり)をして討しむ。因て某この地に防ぎ戦て共に死せしと。この塚はかかる時築しもしるべからず。
また北に並て塚1あり。
経壇といい大さ他の塚に(ひと)し。文字を書し小石出。由来知ず。戦死せし者の供養に築しにや。

古蹟

館跡

村中にあり。
東西1町・南北1町20間。
土居隍の形わずかに残れり。
何れの頃にか木村隼人住せしとぞ。
今は民居となる。




余談。
Wikipediaによると源頼兼は頼政の次男とありますが尊卑分脈では4男になっています。養子である兄国政と兼綱を省いたのでしょう。
参考:尊卑分脈 8巻43~44コマ目(国立国会図書館)
頼兼は橋合戦(1180年)の時父頼政と行動を共にしておらず、次に名が出るのが木曾義仲入京時(1183年)の大内裏の警護役です。その間以仁王の子北陸宮が義仲に保護されている事を考えると、何となくどう動いていたのか見えそうな気がします。