府城の西南に当り行程3里2町。
家数21軒、東西2町10間・南北2町、四方
田圃なり。
また、戌亥(北西)の方1町計、
高田組富岡村に続き家1軒あり。
東1町30間
藤田村の界に至る。その村まで2町。
西36間
富岡村の界に至る。その村まで1町余。
南8町
東尾岐組小川窪村の界に至る。その村は午未(南~南南西の間)に当り11町。
北1町30間
高田組西勝村の界に至る。その村まで3町。
また
未申(南西)の方10町
東尾岐組長岡館村の山に界ふ。その村まで13町。
丑寅(北東)の方4町
新堀村の界に至る。その村まで7町余。
小名
成田
端村沖館の東7町にあり。
家数5軒、東西35間・南北1町。
下野に通る裏街道の北頬に住し、南は
藤田村の小名梅津に向う。西は端村沖館の田圃に続き、東北は数村の田畝相雑れり。
肝煎成田元次という者寛政2年(1790年)に廃田をおこしこの民居を闢く。
端村
中村
本村の辰巳(南東)の方3町にあり。
家数3軒、東西30間・南北40間。
北は
藤田村に続き三方は田圃なり。
沖館
本村の東
藤田村の境内を隔て8町にあり。
家数15軒、東西1町20間・南北1町15間、平野に住す。
東は小名成田の田圃に接し三方は他村の田圃に雑はり、その境界丈量すべからず。
昔は本村の辰巳(南東)の方10町計山麓にあり、天正中(1573年~1593年)ここに移す。
旧地を山浦という。
小川
本村の南
小川窪村の境内を隔て20町にあり。
家数17軒、東西13間・南北40間、山間に住す。
東南は
東尾岐組市野村に界ひ、西は
小川窪村村に界ひ、北は
富岡・
藤田2村の山に接し共に村際を界とす。
南の方小川に
傍ふ。故に村名とす。
山川
熊野堂山
村より13町辰巳(南東)の方にあり。
高50間・周300間。
雑木多し。
昔熊野宮鎮座の所とぞ。
小川
村南1町計にあり。
市野村の境内より来り、端村小川の南を過ぎ
小川窪村の境内を経て、また境内に入り北に流るること10町計
藤田村の界に入る。
千枚石とて川石に色青黒の石理あるものを出す。
太鼓清水
村東8町にあり。
周20間。
原野
上原
村南5町にあり。
4町四方。
原野の中に高1間・周7間径の塚8あり。
何の謂れを伝えず。
水利
堤3
一は村より辰巳(南東)の方3町にあり。
周187間計。
一は端村小川の東8町にあり。
東西40間・南北15間。
一は小川の北12町にあり。
東西14間・南北31間。
神社
聖神社
村中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。
福永村山口越後が司なり。
富士神社
端村沖館の北にあり。
鳥居あり。
神職 山口津守
父を義次という。
天明5年(1785年)福永村藤巻神社の祠官山口美作が譲をうけて当社の神職となる。
寺院
常楽寺
村中にあり。
延命山と號す。冑組尾岐窪村龍門寺の末山曹洞宗なり。
建長元年(1249年)常延という沙門美濃国より来り、当寺を建立し弥陀及び十一面観音の木像を安ず。
永禄の頃(1558年~1570年)は30貫文の寺産ありしという。
天正中(1573年~1593年)蒲生氏の時寺領を失い、後に無住となり佛像を失い堂宇廃毀せり。
この頃まで『大永三年癸未二月十五日』と彫付けし鰐口1口ありしが今はなし。
釈迦を本尊とし客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。
会津三十三所順禮の一なり。
松岸寺
端村小川の戌亥(北西)の方山麓にあり。
真言宗府下
大和町金剛寺の末山なり。
開基詳ならず。
昔寺門の前に1株の古松あり。
また丑寅(北東)の方安鑄に石窟ありて薬師佛を安置せり。故に岩屋山松岸寺と號すという。
慶長の頃(1596年~1615年)蓮住という僧住してより相続いて今に至る。
本尊地蔵客殿に安ず。
薬師堂
客殿の後石階を登り山の中腹岩上に桟閣にす。
昔は側の石窟に安置せり。いつの頃にか寺に移す。
寶永5年(1708年)この堂を建という。
古蹟
館跡
端村沖館にあり。
東西30間・南北50間。
今田圃となり堀形遺れり。
土人の説に、葦名の臣鵜浦入道某という者ここに居ると。
西端に高3尺計の石塔1基あり。『瑞祥院懸崖運載居士天正十九年辛卯八月二十五日』と彫付。
鵜浦が墓という。石塔は後人の造立にてその世のものと見えず。
案ずるに、鵜浦が事外に所見なし。
会津郡原組中田村の端村鵜浦にも館跡あり、土人鵜浦が館ありし所といい伝えれども、事迹詳ならず。
舊事雑考に天正16年鵜浦氏
安積郡郡山の戦に功ありしゆえ葦名義広感状をあたえてその忠を賞し甲斐守と受領を授けしよりを載す。
太鼓清水
(2025/1/27現在)GoogleMap上にはマークがあるが、「福島県の代表的な湧水」の一覧には記載がない。
現在はなくなってしまったのか
最終更新:2025年06月12日 19:53