府城の西南に当り行程4里。
家数37軒、東西4町・南北6町14間。
両山の間に住す。南北に田圃あり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
東8町
本郡橋爪組関山村の山界に至る。その村は寅(東北東)に当り1里2町。
西18町
無量村の山に界ふ。
南29町
大内村の山界に至る。その村は巳(南南東)に当り2里1町50間余。
北21町計本郡橋爪組
藤田・
福光両村の山界に至る。藤田村まで1里。
また
亥(北北西)の方29町
小川窪村の界に至る。その村まで29町余。
村南に一里塚あり。
端村
大黒沢
本村の北8町10間余にあり。
家数7軒、東西2町・南北3町。両山の間に住す。
南北は田圃にて、村東に下野街道あり。
駒谷
大黒沢より丑(北北東)の方8町10間にあり。
家数4軒、東西40間・南北50間。下野街道に住す。
東西は山に傍ひ南北に田畠あり。
この村旧は3町計東の山中駒谷という処にあり。火災に罹り天明6年(1786年)この地に移る。
向小川
駒谷の北5町余にあり。
家数7軒、東西2町・南北2町。
両山の間、下野街道の東頬に住す。
南北は田圃なり。
村西に1里塚あり。
山川
富士嶽
村より戌(西北西)の方にあり
頂まで8町計。
近隣の諸山よりやや高く松樹雑木茂れり。
巓に富士神社あり。因てこの名ありとぞ。
沼平峠
村より巳(南南東)の方1里2町余、下野街道にあり。
登ること18町余。
ここを越て
大内村に行く。
小川
村南諸村の渓流合して村中を過ぎ、北に流るること1里余
小川窪村の界に入る。
神社
稲荷神社
村東1町余、山越にあり。
石階100余級。石鳥居あり。寺入村佐藤日向が司なり。
富士神社
富士嶽の巓にあり。
鳥居あり。佐藤日向が司なり。
八幡宮
端村大黒沢の北1町余、山麓にあり。
石鳥居拝殿あり。佐藤日向これを司る。
寺院
薬師寺
村中にあり。
旧この地に薬師堂ありしを、慶長元年(1596年)長覚という僧来り薬師を本尊とし1宇を建立し芳明山薬師寺と名けしとぞ。
天台宗上野国世良田長楽寺の末寺なり。
本尊薬師客殿に安ず。
古蹟
館跡
富士嶽の上にあり。
佐々川館という。
昔何の頃にか宇田川民部某という者住すという。
今は木立茂りて、四方の間数さだかならず。
隍の迹とて往々窪き所残れり。
余談。
- 富士嶽は市野村の西北西で一番高い…のであれば、現在の地図で該当するのは大沢山ですが、名前が変わったのでしょうか?
- 大黒沢の東に謎の階段はあるのですが行先がどこなのか不明です。
市野峠と市野駅
市野峠(位置的にここが沼平峠)は越後国から下野国へ通る下野街道の宿場町で、建物の形は変わってもその名残りは所々に残っています。
明治16年(1883年)英国の旅行
イザベラ・バードが日本に訪れた時、大内からこの峠を越えたとの記録が残っているそうです。
案内板より引用
市野峠 標高八百七十m
この峠は古代から会津盆地と南山地方を結ぶ大切な接点であった。ここから南山への道をたどると大内、田島、今市に向かい、北への道をたどると新発田藩や村上藩などが大名行列を組んで峠を超えたし、また高田の麻や坂下の煙草も江戸えと運ばれた。
当時、御蔵入の人々は、薪炭や木地、木羽板なとを馬の背に積み峠を越えて盆地に運び、戻り荷に米や塩、酒、醤油などの生活必需品を南山地方に持ち帰った。
明治十一年六月、北に向がって旅行中の英国女性イザベラバードは、著書「日本奥地紀行」で「雄大な市川峠と登った…平野は深い藍色に包まれ…遠くそびえる山々は深雪を頂いている」と峠からの美しい眺望を嘆賞している。
イザベラ・バードは著書の中で、市野駅を越え高田に着いた時「みすぼらしい村だ」と言ったらしいのですが、戊辰戦争時
伊佐須美神社近隣は軍事拠点でしたし当時はその傷跡がまだ癒えてなかったのでしょう。
蛇足
参考元になぜ本街道を外れて市川峠を通ったのか疑問に思うとの記述がありますが、大内から若松に向うには氷玉峠を通るのが一般的でしょうけれど、新潟へ抜けるには市川峠(市野峠/市野駅)を通るのが通常のルートです。一応この峠も下野街道の一部です。
最終更新:2020年04月17日 13:27