河沼郡笈川組北田村

陸奥国 河沼郡 笈川組 北田(きたた)
大日本地誌大系第33巻 105コマ目

府城の西北に当り行程2里15町。
家数32軒、東西1町35間・南北1町44間余。
四方田圃なり。

東2町21間下垂川村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り13町。
西は村際にて中台村に界ふ。その村は辰(東南東)に当り2町30間余。
南3町43間堂畠村の界に至る。その村は西に当り1町40間。
北9町31間塩川組上下遠田両村に界ひ日橋川を限りとす。
また
丑(北北東)の方6町15間粟宮新田村に隣りその村際を界とす。
子丑(北~北北東の間)の方6町50間沼上村に界ひ黒川を限りとす。その村まで15町余。

山川

日橋川

村北10町余にあり。
沼上村の境内より来り、西に流るること2町余堂畠村の界に入る。
広40間。

鶴沼川

沼上村の界より来り、西北に流れ北に折れ1町50間流れ日橋川に入る。

寺院

常法寺

村中にあり。
開基の年代詳ならず。真言宗なり。
永禄の頃(1558年~1570年)勝常村勝常寺の僧盛慶という者住してより彼寺の末山となる。
山號を教主山という。
本尊薬師客殿に安ず。

地蔵堂

境内にあり。

古蹟

館跡

村北7町50間余にあり。
本丸、東西55間・南北35間。
その外に東西2町・南北1町55間の外郭あり。
東は黒川に臨み北は日橋川に傍ふ。
この館は北田次郎廣盛が住所なりという。
廣盛は遠江守盛連が二男なり。三浦泰村が叛きし時、寶治元年(1247年)6月兄弟諸共に左親衛時頼が第に集まりしよし東鑑に見ゆ(東鑑に北田を比田に作れるは誤りなり)。その子孫この所に住せしと見ゆれども世系履歴考ふべき便なし(世に武家系図という刊行の書あり。廣盛が世系を載すれども是なりや否をしらず)。康暦元年(1379年)この地に合戦ありて葦名氏の者討死せしよし舊事雑考に見ゆれども詳なることは知らず。塔寺村八幡宮長帳に應永16年(1409年)6月3日北田殿城下(おわ)るとあれども誰人の為に亡されしということを載せず(舊事雑考に或記を引きて、應永17年(1410年)の事をするは非なり)。斯りし後は住せる者なく荒果てしを、慶長中(1596年~1615年)上杉氏若松の城狭しとて府を移さんと議せし時この地こそ地の利よく究竟の要害なれとて己に築くべかりしを、如何なる(ゆえ)にかこれを止め会津郡神指に営せり。