耶麻郡塩川組上遠田村

陸奥国 耶麻郡 塩川組 上遠田(かみとほた)村・下遠田(しもとほた)
大日本地誌大系第32巻 39コマ目

この村昔は1村なり。寛永19年(1642年)分て両村とす。されども田畠・原野共に他界なし。

上遠田村は府城の西北に当り行程3里21町余。
家数27軒、東西2町32間・南北1町34間余。
四方田畠なり。

下遠田村は上遠田村より8町50間余巳(南南東)の方にあり。
家数38軒、東西3町20間・南北4町2間。
東は日橋川に()ひ西南は田畠なり。

東36間塩川村の界に至る。その村は上遠田村より辰(東南東)に当り11町10間余、下遠田村より寅卯(東北東~東の間)に当り11町余。
西は上遠田村より2町34間小荒井組貝沼村の界に至る。その村まで4町20間。下遠田村より13町6間河沼郡青津組立川村に界ひ鶴沼川を限りとす。
南は下遠田村より5町12間河沼郡笈川組北田堂畠両村に界ひ日橋川を限りとす。
北は上遠田村より3町39間小荒井組第六天村の界に至る。その村まで5町20間余。

上遠田村 端村

田向(たむき)

本村より1町10間南にあり。家数14軒、東西2町25間・南北57間。
また1町巳(南南東)の方に家数5軒あり。東西52間・南北43間。
共に四方田圃(たんぼ)なり。

下遠田村 端村

新屋敷(しんやしき)

本村より1町20間余西にあり。
家数5軒、東西38間・南北1町42間。
四方田畠なり。

山川

日橋川(堂島川)

俗に堂島川という。
塩川村の方より来り、下遠田村の東より南に回て西に折れ北に転じ、凡1里8町流れ貝沼村の界に入る。

鶴沼川(大川 / 佐野川)

俗に大川とも佐野川ともいう。
日橋川の西にあり。
堂畠村の界より来り、下遠田村の西を北に流るること11町40間余貝沼村の界に入る。
広50間計。

沼2

一は下遠田村の東にあり。東西2町44間・南北1町22間。
一は下遠田村の南2町余にあり。東西1町35間・南北1町16間。
共に昔日橋川の溢れし迹なりという。

原野

秣場

下遠田村の南にあり。
東西1町59間・南北2町20間。

土産

牛蒡

この村の産、香気ありて味美なり。

関梁

船渡場

下遠田村の辰巳(南東)の方にて日橋川を渡す。
府下より慶徳組の村々に通る裏街道なり。

水利

遠田堰

上遠田村より2里計亥(北北西)の方、小荒井組小荒井村の西にて押切川を引き両村の田地に(そそ)ぎ、下遠田村の西にて日橋川に入る。
こお地巨川に傍えども地形高ければ水を引くべき便なかりしを、寛永6年(1629年)この村の肝煎喜右衛門というものこれを鑿してより今に至るまでその利に頼るという。
上遠田村の肝煎湯浅雄右衛門という者か当家より与えし文書を蔵む。因に左に録す。
   可出す人足之事
一 三拾六人は  遠田村
一 貳拾三人は  貝沼村
一 九人は    沖村
一 八人は    大六天村
一 拾九人は   柴城村
一 九人は    鎧目村
一 四人は    新明村
 合百八人を
右之遠田村ノ井出うまり候に付さらへ候普請用に候間此方ゟ鐵炮之者奉行に遺候間 右之人足肝煎共召つれ罷出奉行に引渡しふしん可致者也
         守岡主馬
 午三月廿七日    印
     村々肝煎中へ

神社

白山神社

祭神 白山神?
草剏 不明
上遠田村にあり。
西北の隅に槻の古木あり。今は枯れて僅かに根株を存す。大さ4圍余。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

山王神社

祭神 山王神?
相殿 稲荷神 9座
   富士神
   五社
   柏木神
   伊勢宮
   幸神
   若宮八幡
   熊野宮
   湯殿神
鎮座 不明
下遠田村の6町50間余申(西南西)の方にあり。
鳥居拝殿あり。旧本組諸村の神社は下遠田村山崎主計が司なりしが、主計死して後府下北小路町大久保播磨仮にこれを司る(以下播磨仮に司るというものこれに同じ)。

寺院

真福寺

上遠田村にあり。
寶田山と號す。何れの頃にか湯上豊前某という者草創すという。
文禄元年(1593年)長悦という密僧武州*1より来りこの寺を中興せり。慶安3年(1650年)河沼郡笈川組勝常村、真言宗勝常寺の末寺となる。
本尊虚空蔵客殿に安ず。

観音堂

客殿の東にあり。
十一面観音を安ず。長1尺5寸、古佛と見ゆ。

大光寺

下遠田村にあり。
曹洞宗、五目組熱塩村示現寺の末山なり。山郷を福聚山という。
この寺千年余の古刹にて、旧7間四面の観音堂あり。柱は金を(ちりば)め屋は檜皮葺なり。その外三重の塔を始め178の堂宇に36の坊院、壮麗を極めしゆえ大光寺と名けしとぞ。今二王堂河原というもこの寺にありし二王堂の跡なりとぞ(村の東南沼上村の境内にあり)。また田畠の字に五輪堂という処あり(村南にあり)、これもこの寺旧大刹にて耶麻一郡の高野と称し地侍の五輪・石塔多くありしゆえの名なりという。寺領は300貫文、その外年々施餓鬼(せがき)*2の料もありしゆえ施餓鬼田という地名もあり(村北にあり)。
その後いつの頃よりか寺領を失い堂宇頽破(たいは)せしを、越後国より安翁という僧来てこの寺を再興せり。その徒弟存茂慶長の頃(1596年~1615年)この寺に住し始て示現寺の末山となる。
観音堂に安置せる千手の木像は運慶作にて霊験も多くありその外古佛多かりしが、数度の回禄にこれを失い今は災後に造れる新像のみなり。
またこの寺の続きに五所宮という所あり。ここも旧この寺の境内にて五所權現とて稲荷・祇園・加茂・春日・天神の5座を祭り1村の鎮守なりしという。今はなし。
本尊釈迦客殿に安ず。

薬師堂

境内にあり。

観音堂

同上。
千手観音を安ず。脇立、不動・毘沙門。

古蹟

館跡4

一は上遠田村の戌亥(北西)の方にあり。東西48間・南北40間・何れの頃にか湯上豊前某という者住せしとぞ。今は畠となる。また法林寺秀綱の後裔葛西三郎義貞住し、後遠田五郎長綱領せりと伝えれども詳ならず。
一は下遠田村の北にあり。東西42間・南北52間。三橋備前定重の2男刑部重治住せりという。今は畠となれども土居の形存す。
一は下遠田村にあり、一は端村新屋敷にあり。何れの頃何人の住せしにか、共に今は土居・隍の形もさだかならず。



余談:日橋川(阿賀川)の流れについて
昔から氾濫が多く治水事業が必要とされてきました。昭和18年(1943年)に工事の許可が出たものの戦争で事業は一時中断、その後昭和31年(1956年)の氾濫を機に再開し、昭和56年(1981年)に全区間の堤防が概成となったそうです。
阿賀野川河川事務所のホームページに新旧の河道の図が載っています。下遠田地区の南は広い土地がありましたが、河道が北になったことで狭くなってしまったようです。日橋川の南岸の一部(向川原)がなぜ湯川町ではなく喜多方市なのか、旧河道の図を見ていただければ納得できると思います。
参考:日橋川の改修

余談:山王神社について。
日枝神社も山王神社も主祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)です。
大山に杭を打つ神の意味で、大きな山を持つ神=山の地主神で、農耕を司る神らしいです。

余談:柏木神について。
柏木神社は東京都北区が有名らしいですが、場所からすると宮城県多賀城市の柏木神社の分祀した神体が祭られているのではないでしょうか。
多賀城市の柏木神社の主祭神は藻塩場老翁(もしおばのおじ)藻塩場老女(もしおばのろうじょ)の2柱で、塩土老翁(しおつちのおじ)と同じで潮流を司る神様です。航海の神とも塩釜の神とも言われています。
下遠田村の南に流れる日橋川は船運が盛んにおこなわれていましたし、塩川という地名も相まってこの神様を祭ったのは当然なのかもしれません。
参考:宮城県神社庁
最終更新:2020年07月01日 12:21

*1 武州:武蔵国。現在の神奈川県の一部

*2 施餓鬼:生前の悪行などにより餓鬼となった霊魂や、無縁仏など供養されない死者に施しを行う法会