河沼郡笈川組下垂川村

陸奥国 河沼郡 笈川組 下垂川(しもたるかは)
大日本地誌大系第33巻 101コマ目

府城の西北に当り行程2里11町。
家数25軒、東西2町10間・南北1町44間。
東は黒川に傍ひ三面は田圃(たんぼ)なり。

東46間笠目村に界ひ黒川を限りとす。その村は巳(南南東)に当り4町50間余。
西8町4間勝常村の界に至る。その村は申酉(西南西~西の間)に当り11町10間余。
南10間上垂川村の界に至る。その村まで2町余。
北46間笈川村の界ひ界川を限りとす。その村は丑(北北東)に当り9町50間余。
また
戌(西北西)の方6町7間中台村の界に至る。その村まで8町50間余。

小名

扇田(おふきた)

本村の西4町20間余にあり。
家数12軒、東西1町48間・南北48間。
四方田圃なり。
また他村の境内を隔て4区あり。
一は本村より未申(南西)の方上垂川村の境内を隔て8町余にあり。上扇田という。家数9軒、東西36間・南北1町30間。四方田圃なり。地面、東西2町50間・南北5町50間余。東は熊川村に隣り、西南は中目村に続き、北は上垂川村に界ふ。
一は本村より亥(北北西)の方中台村の境内を隔て7町余にあり。下扇田という。家数7軒、東西54間・南北42間。四方田圃なり。地面、東西3町余・南北4町30間余。四面北田村に界ふ。
一は本村より辰巳(南東)の方上垂川村・熊川村・米丸村の境内を隔て26町50間余にあり。東扇田という。家数3軒、東西40間・南北22間。四方田圃なり。地面、東西5町40間余・南北6町30間余。東は森台村に界ひ、西は米丸熊川両村に連なり、南は高久組界沢村に隣り、北は米丸村に続く。
一は本村より戌(西北西)の方中台村・北田村の境内を隔て8町余にあり。西扇田をいう。家数2軒、東西25間・南北20間。西は堂畠村に続き三方田圃なり。地面、東西50間・南北1町20間余。東は北田村に界ひ、南北は堂畠村に連なる。
享和2年(1802年)より漸々に民居を構え、文化2年(1805年)より扇田と称し本村に属す。

山川

黒川

村東にあり。
上垂川村の境内より来り、北に流るること3町20間余粟宮新田村の界に入る。

関梁

村東1町余黒川に架す。
長8間・幅5尺。
隣村の通路なり。

神社

鬼渡神社

祭神 鬼渡神?
相殿 伊勢宮 2座
   住吉神
   明神
草創 不明
村中にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

寺院

禅定寺

村中にあり。
臨済宗山號を聖會山という。
京師東福寺開山聖一國師の弟子月堂が建立という。
始は寮舎巨宏にて7堂伽藍備わり寺内も方4町なりしかや。今も畠の中に坊院の旧名をのこせるあり。
元徳の頃(1329年~1331年)住職の僧郭内興徳寺第3世大圭に随身してより今に至るまで興徳寺の末山なり。
天正巳丑の乱(1589年)に兵燹(へいせん)に罹り殿堂門廡残らず焼失し7層の塔のみ残りしが、文禄4年(1595年)の大風のために傾き倒る。今にその遺址あり。
客殿に本尊地蔵を安ず。

観音堂

境内にあり。
観音の木像は行基作という。秘佛なり。



最終更新:2020年05月05日 14:17