河沼郡青津組蛙田村

陸奥国 河沼郡 青津組 蛙田(かへるた)
大日本地誌大系第33巻 115コマ目

この地に昔蛙沼とて大なる沼あり。その迹に家居を闢ければかく(・・)は名けしとぞ。

府城の西北に当り行程3里29町余。
家数12軒、東西1町34間・南北48間。

東は船越笊籬屋敷2村につづき三面田圃(たんぼ)なり。
西6町41間見明村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り13町10間。
南1町54間見留村の界に至る。その村まで4町50間。
北3町27間大口村の界に至る。その村まで5町余。
また
亥(北北西)の方5町29間上宇内村の界に至る。その村まで40間余。
未申(南西)の方2町2間牛沢組塔寺村の界に至る。その村まで9町余。

端村

西蛙田(にしかへるた)

本村の戌亥(北西)の方3町にあり。
家数5軒、東西18間・南北1町2間、四方田圃にて西は山に近し。

山川

齋藤(さいとう)

村西5町にあり。
高17丈計。
何れの事にか齋藤但馬某というものこの山を領すという。来由詳ならず。

寺院

圓昌寺

村より未申(南西)の方20間余にあり。
如意山と號す。真言宗、開基詳ならず。
永禄年中(1558年~1570年)薩摩国より玄識という僧来て中興す。
後空院となり、天正中(1573年~1593年)越後国より長順という僧来り住してより大町弥勒寺の末山となる。
本尊大日客殿に安ず。


参照


外部リンク等


蛙田周辺の地図

※地理院地図(2025/11/04付)

伝承

大沢神社の由来
安倍貞任(あべのさだとう)の娘が世間をはばかって宇内に隠れ住んでいた。
ところが運悪くライ病になったので、今まで親しく交際していた村の人々も一人離れ二人遠ざかって、ついには誰もよりつかなかくなった。
その後病気はますます重くなったので、村人はたいそういやがって、ついに塔寺北の"ドスが沢"に小屋を建てて移した。
ライ病は昔から人々にきらわれる病気である。それで坂下地方ではこの病気にかかった者を塔寺北の沢に小屋を建てて住まわせ自活させて交際を絶っていたらしい。それでこの沢を通称「ドスが沢」と呼んだそうだ。
ところが蛙田の村人は由緒の正しい美人の娘を「ドスが沢」に一人住まわせるのはたいそう気の毒だと同情して、沢からつれて来て村北に小屋を建てて住まわせた。そして生活については何かと面倒をみてやり慰めては気分を引き立ててやった。
その娘はたいそう感激して月日を送ったが、医療も十分できない昔のこととて死んでしまった。
それで村人はたいそう気の毒に思い、今まで住んでいた所に葬って石像を刻み、大沢大権現と名付けてお参りした。
その後この石像に参詣する人が多くなったので、お堂を建て子供の遊び場やおこもりの場所にしたそうだ。また、大沢大権現の名は明治になってから大沢神社となった。
また一説によると、ドスが沢に住んでいるうち大雨のため洪水となり小屋もろともに流されて蛙田の村北に漂着し溺死した。それでその場所に葬って石像を建てた。
子供がクラデキモノができると白粉をもって行って石地蔵の口辺にぬり、残りを持ち帰って子供のデキモノにぬるとたちまち全快するとのことである。
いづれこの由来はよほど古いらしく、境内には古木が多い。とくに東北部の大ケヤキなどは台の宮公園の大ケヤキと共に、わが町屈指の古木と思われる。
(話者:藤田キヨミ 明治40年1月19日生 / 山内一三 明治39年11月1日生)
安倍貞任:平安時代中後期の武将

十二神の加勢
蛙田村と塔寺と、いさかいが腕力沙汰にまでなり、少数の蛙田勢が負けそうになった時、12人の加勢者が現れて勝つことが出来た。帰り道に12人の姿は消えたので、十二神社を祭った。

萬蔵坊跡
大澤神社の北東の水田中に、径約7米の塚があって、萬蔵坊跡と称している。高寺三十六坊の一の萬蔵坊跡ともいうが、蛙田の萬蔵坊が塔寺八幡宮に奉仕しているので、役僧の跡と考えられる。
最終更新:2025年11月04日 21:09
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