河沼郡牛沢組日度村

陸奥国 河沼郡 牛沢組 日度(ひわたし)
大日本地誌大系第33巻 133コマ目

この村中頃樋渡に作る。寛文中(1661~1673年)旧の文字とす。

府城の西に当り行程2里24町。
家数44軒、東西3町・南北2町、四方田圃(たんぼ)なり。

東3町水島村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り6町10間余。
西4町勝方村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り12町。
南3町大沼郡中荒井組出戸田沢村の界に至る。その村は未申(南西)に当り4町10間余。
北6町大江村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り10町50間余。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 稲荷神 3座
熊野宮 2座
鬼渡神
天神
羽黒神
鎮座 不明
村西20間余にあり。
鳥居拝殿あり。勝方村尾崎左京これを司る。

寺院

東源寺

村南にあり。
曹洞宗靈末山と號す。天寧村天寧寺の末山なり。
昔この村の地頭樋渡彌次郎高滋という者禅法に帰依しければ、高滋死後子孫冥福を祈り天正11年(1583年)院宇を営み天寧寺10世曇吉を請て開山とす。
本尊地蔵客殿に安ず。


参照


外部リンク等



町史より

1.成り立ち
(略)
この村の番場寿氏の家に伝わる寛文五年(1665年)の日渡風土記によると次の様なことが記されている。天正の始め頃(1573年~?)と推定されるが樋渡弥次郎高滋という地頭(じとう)がいた。この地頭は禅宗に帰依して信仰心厚く、常に慈悲を以て民衆を善導したので、慈父の如く慕われていた。よって村人たちは天正十一年に天寧寺より曇吉和尚を請じて東源寺を開いた。天正十七年(1589年)伊達政宗が会津を占領した際日渡の村民は挙って政宗の命に従わないので全村焼き払われた。
この集落には古くから薬師堂もあり信仰のきづなによって支えられて来たところと考えられる。
(後略)
6.神社
熊野神社 祭神:伊弉冊神・速玉乃神・事解乃男(ことさかのお)神 祭日:四月二十五日(旧三月二十五日) 鎮守神
熊野権現
牛頭天王 祭日:旧六月十五日
7.寺院
霊松山 東源寺 曹洞宗 本尊:地蔵菩薩立像 像高:三十六糎
薬師堂 瑠璃光薬師如来立像 像高:四十五糎 もと久保西の地に御堂が建立されていたが地震にて倒壊、後に安永三年(1774)に法印南龍院によって現在地に再建されて今日に至る。
9.伝承
(1) 和尚壇
円墳 高二間・周り十五間、六部壇または和尚壇と呼んでいた。耕地整理の際に崩し、長さ四尺位の直刀一振出土したという。
(2) 薬師講
昔は越後から薬師講を結んで毎年参詣に来ていた。
(3) 二王門の流出
天文五年(1536年)の白髭の水の際、日渡の二王門が漂流しての二王になったと伝えられている。
(4) 九坊跡
現在久保と称している所、百五十米四方位の地域に土塁の跡があり「おがい水」という清水が湧いている。現在は民家二軒が建てられている。
(5) 亀井六郎の死
源義経一行奥州下りの際、この樋渡の地で家来の亀井六郎が病気に罹り一ヶ月余滞在、亀井六郎は死亡したので信夫の里をさして旅立ったと伝えられている。昔は亀井六郎の墓もあったという。
(6) 館跡
東西三十八間・南北三十一間、文明年中(1469~1487年)中山内又七住ス。天正ノ頃(1573~1592年)樋渡弥治郎住ス 『会津鑑』
最終更新:2025年10月26日 21:51