河沼郡牛沢組杉村

陸奥国 河沼郡 牛沢組 (すき)
大日本地誌大系第33巻 134コマ目

府城の西に当り行程3里18町余。
家数29軒、東西1町・南北4町40間、西は山に()ひ東南北は田圃(たんぼ)なり。

東5町50間坂下組坂下村の界に至る。その村まで11町30間余。
西10町余坂下組気多宮村の山に界ふ。
南55間船窪村の界に至る。その村まで4町30間余。
北1町56間塔寺村の界に至る。その村まで8町40間余。
また
辰(東南東)の方4町32間蛭川村の界に至る。その村まで6町20間。

水利

堤2

一は村より2町20間申(西南西)の方にあり。
東西59間・南北27間。文化元年(1804年)に築く。

一は村より5町30間申(西南西)の方蟹沢という所にあり。
周119間。

寺院

薬師堂

村西山下にあり。

薬師の像
長3尺5寸計。
座像脇士日光月光
各長3尺余。
共に行基の作という。

造立の年代知らず。古木繁陰して(すこぶ)る幽間の地なり。
昔村より申(西南西)の方10町計山奥にあり。天正12年(1584年)今の地に移す。その時の棟札の写しとて今に伝れり。
天正12甲申(1584年)5月2日再興し古佛の医王を安置せしよしを載せ、別当宥覺阿闍梨大檀那黒澤刑部左衛門長谷川孫左衛間出尻和泉とあり。

二王門

本堂の前にあり。
3間に2間。
力士の像
長1丈。
大沼郡高田組新屋敷村田子薬師に存しが、天文中(1532年~1555年)の洪水に流れ来りしをここに安置せしとぞ。

垂糸桜

本道の左右に2株あり。
左にあるものは天正の頃(1573年~1593年)松窪村の農民本州宮城郡より1株の桜を持来て栽しとぞ。今周数圍の古木となり、右にあるものはその実生にて枝葉繁茂し花時愛すべし。

別当 藥應寺

本堂の前にあり。
真言宗醫王山と號す。府下道場小路観音寺の末寺なり。
開基詳ならず。
天正2年(1574年)宥覺という僧再興せり。

古蹟

館跡

村南にあり。
東西28間・南北20間。
昔いつの頃にか田尻大和某という者住し、後田尻和泉・長谷川孫左衛門とて兄弟住せしという。
田圃(たんぼ)を闢て僅かに土居の形あり。


参照


外部リンク等



社寺

町史より)
6.神社
稲荷神社 祭神:倉稲魂神 祭日:九月廿九日 鎮守神
7.寺院
醫王山薬應寺 真言宗 阿弥陀如来坐像 像高:六十糎
薬師堂 中尊 木造薬師如来坐像 像高:百二十五糎、脇待日光尊・月光尊・四天王 十二神将等眷属が揃っている。また二王門には金剛力士二躯あり。杉薬師として昔から信仰が続いている。

杉の糸桜

新編会津風土記の「垂糸桜」はエドヒガンザクラの変種で会津五桜の一に数えられる有名な桜である。現在は古木一株と若木一株が生育している。

杉舘跡

杉舘跡について - 会津坂下ぶらっと散歩より、本文を一部引用)
杉舘(すぎだて)跡
 会津坂下町の西、杉集落の杉薬師前のJR只見線の踏切から南へ250m程の旧県道塔寺・赤留線沿いの温水溜池南のあたりが館跡だと言います。現況は耕作地となっています。会津坂下町全体を眺望できる丘陵地に位置します。じつはこの道路は、太古の越後街道です。さらに「怪盗塔寺八反(歩くべガイド5の萬年山泉養寺で紹介)」の逃走経路でもありました。
 会津鑑には『柵、東西28間(51m)南北20間(36m)、田尻大和築キ住ス。ソノ後胤田尻和泉長谷川孫左衛門、黒沢刑部左衛門兄弟三人住ス、先祖は安倍貞任弟正任之後胤也。天正ノ頃(1573~1591年)東西50間(91m)南北30間(55m)ニ成ル』との記載があります。中世の会津坂下町には、前9年の役(1051~1062年)の陸奥連合軍側の中心人物安倍貞任所縁の人が住んでいたんですね。
 田尻大和の大和とは、大和守という官職名の略称です。律令制の中で、その地域の管理行政権を委ねられた人の官職です。つまり大和国(奈良県)の管理者に大和守と言う官職名が与えられました。和泉守も同様で和泉国(大阪府南部)の管理行政官のことです。律令時代では公卿官僚の数が少なかったので機能できましたが、中世以降の武家政権の下では地方行政官の数が多くなり、さらに朝廷の財政もひっ迫して来たので大名領主は献金の見返りに官位を求めるようになりました。会津芦名氏の領主始め多くの家臣が叙位・任官できたのは会津産出の金・銀・綿布などの朝貢によるものでした。会津に住んでいるのに大和国(奈良県)や和泉国(大阪府南部)を掌握できるはずないですよね。御所へ参内して天皇に拝謁する時は官職名が必要だったので、地方武家は自らの家格を上げる為、実務の無い名目上のものでも官位を欲しがったのです。会津最後の領主松平容保公は肥後守が官位です。これは幕閣としての職務上必要だったので、朝廷から正式に叙任されたものです。京都守護職時代は皇城警備の軍事官位の左近衛権中将後に官僚として公卿の地位の正四位下に叙任されています。つまり、御所へ参内して天皇に謁見する時は「正四位下左近衛中将源朝臣松平肥後守容保」が容保公の正式な紹介名でした。肥後守を叙任された時、瞬間的には肥後国(熊本県)に会津藩の飛び地があったこともありました。ちなみに、東京上野の寛永寺境内の参道の灯篭の中に、「源朝臣松平容保」公が寄進した灯篭があります。
 温水溜池とは、山間地の湧水は水温が低く、そのままでは農業用水としては適さないので、一時溜池に導水して水温を上げてから農業用水として使用する灌漑施設のことです。
最終更新:2025年10月28日 20:51