河沼郡坂下組坂下村

陸奥国 河沼郡 坂下組 坂下(はんけ)
大日本地誌大系第33巻 118コマ目

この村みな高寺の坂下にありし(ゆえ)名けしという。塔寺八幡宮天喜5年(1057年)の神役目録に番下村に作れり。何れの頃より今の文字を用いしにや。長帳(当寺八幡宮所蔵)に文禄の頃(1593年~1596年)には既に坂下の字を記せり。また下茅津村肝煎の家に蔵むる慶長6年(1601年)の文書にも坂下御蔵とあり。文禄4年(1595年)10月27日この村火災ありし後栗村と合せて1村とせしこと長帳にあり。栗村もまた古より有りし村にて天喜5年6月3日祭禮を務めし事また神役目録に見ゆ。
蒲生氏の時寛永2年(1625年)村南の地に町割し。
毎月6度の市日を定む。今もなお49の日を以てこの村の市日をし、遠近より群集し諸物を交易す。毎年正月14日を初市とて、この村の農民15より65歳までを限り上下2組に分し米俵を争い勝負に随ひ米価の高下を定る事あり。これはこの国の旧俗にて府下大町より以下処々にあれども、この地の壮観に比するものなければ来見るもの尤多し。

府城の西北に当り行程3里。
家数399軒、東西10町50間・南北2町16間。
東より西に通り北に折れ越後街道を挟み両頬に連なれり。
東の入口を上町(うはまち)といい、次を中町(なかまち)、次を下町(したまち)という。北に折れたるを新丁(しんちやう)といい、中町より北に通るを茶屋町(ちややまち)という(この町の北端米倉の地に蒲生氏の時別墅(べっしょ)あり貞享の頃(1684年~1688年)まで茶屋残れり)。
四方田圃(たんぼ)にて北に宮川あり。

越後街道駅所にて府下よりここに継ぎ、21町40間牛沢組塔寺村駅継ぐ。その間に1里塚あり。また村中に越後より下野に通る街道あり。2里32町40間大沼郡高田組高田村駅に継ぐ。
村中に本陣を置き、官より令せらるる掟条目の制札あり。

東は古坂下村と連なれり。
西5町48間牛沢組杉村の界に至る。その村まで11町。
南4町22間原村の界に至る。その村まで8町余。
北4町34間和泉河原新田村の界ひ宮川を限りとす。その村まで8町30間余。
また
子丑(北~北北東の間)の方4町34間中政所村に界ひ宮川を限りとす。その村まで10町40間余。
辰(東南東)の方5町24間葉林村の界に至る。その村まで8町。
申(西南西)の方6町6間牛沢組蛭川村の界に至る。その村まで10町30間。
戌(西北西)の方9町1間塔寺村の界に至る。その村まで12町40間余。
亥(北北西)の方5町57間青津組新舘村の界に至る。その村まで12町40間余。

山川

宮川(みやかわ)鶴沼川(つるぬまかわ)

俗に鶴沼川という。下同。
村東5町にあり。
葉林村の界より来り、古坂下村の地を過ぎ6町40間北に流れ西に転じ15町50間流れ新舘村の界に入る。

土産

烟草

諸村の烟草を買集め江戸諸方に売出す。坂下烟草と称する者これなり。

関梁

船渡場

村東にあり。
宮川を渡す。越後街道なり。冬月は土橋を架す。
昔この所を西明寺渡という。
享禄4年(1531年)3月1日蛇出て1日1夜下流水流れさりしこと長帳に見ゆ。

水利

栗村堰(くりむらせき)

原村の方より来り田地の養水とし塔寺村の方に注ぐ。
昔この村の地頭栗村下総という者領地水利に乏を患て稲荷社に参籠し7日7夜祈願しければ或夜不思議の示験を蒙り、やがて渠を穿ち元亀元年(1570年)にその功を畢しとぞ。その時栗村が家の子笠間平大夫という者その事に任せしとて子孫今に堰守という者を務む。

郡署

代官所

中町にあり。
役人を置き坂下・牛沢両組を支配せしむ。
会津郡中荒井組中荒井村郡役所に属す。

神社

諏訪神社

祭神 諏訪神?
勧請 不明
下町にあり。
もと村北にあり。寛永8年(1631年)ここに遷せりという。
祭禮は7月27日。
鳥居幣殿拝殿あり。

別当 一傳院

本山派の修験なり。
開山を宥仙という。
寛文の頃(1661年~1673年)牛沢組中茅津村より移れり。
現住宥眠まで5代なりという。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 伊勢宮
   三島神
   鬼渡神
   高木神
   中地神
   明神
   権現 2座
鎮座 不明
村西4町、小高き所にあり。
鳥居あり。原村山田伊勢が司なり。
村民この地を杵森(きねがもり)という。
相伝ふ。義家朝臣この辺に宿陣ありし時農民糧米を(つい)て供しけるが、その後杵臼と米とを各1所に埋めしと。その東1町計を隔て田畝の中に米森とて小さき壇あり(森は新舘村の境内にあり)。

寺院

法界寺

上町にあり。
山郷を虚空山という。慶長元年(1596年)宗悦という僧創建せり。
曹洞宗会津郡南青木組天寧村天寧寺の末山なり。
本尊観音客殿に安ず。

弁天堂

境内にあり。

光明寺

中町にあり。
正覺山と號す。浄土宗府下五之町高巖寺の末山なり。開基詳ならず。
もとは光明院と称す。天正3年(1575年)岌岸という僧住して院を改めて寺とすという。
弥陀を本尊とし客殿に安ず。聖徳太子の刻む所という。
門上に鐘を懸く。径2尺5寸、『正徳三巳年六月廿一日當寺貳拾世縁蓮社法譽上人祖残代大願主五十嵐甚左衛門』と彫付けあり(正徳3年:1713年)。

十王堂

境内にあり。

光照寺

茶屋町にあり。
寛永元年(1624年)純覺という僧開基せり。
浄土宗京師東本願寺の末寺なり。
本尊弥陀客殿に安ず。

貴徳寺

茶屋町にあり。
浄土宗、山號を長光山という。また高巖寺の末山なり。
創立の時代伝わらず。
天文14年(1545年)岌延という僧住せりという。
本尊弥陀客殿に安ず。立像長2尺5寸。
脇立観音勢至、長2尺1寸。
共に定朝が作という。
鐘楼にかくる所の鐘径2尺5寸、『享保改元丙申孟秋十七日廿世最譽上人演廓代願主氣多宮村平野與治右衛門』と彫付けあり(享保元年:1716年)。銘あれども煩しければ禄せず。

観音堂

境内にあり。

定林寺

下町にあり。
益葉山と號す。曹洞宗耶麻郡五目組熱塩村示現寺の末山なり。
何れの時の開基にか詳ならず。
天文21年(1552年)宗銀という僧住してより示現寺に属すという。
観音を本尊とし客殿に安ず。長2尺2寸。伝言ふ、定朝が刻める所にして高寺より移せりと。
鐘楼に鐘を懸く。径2尺5寸、『延寶三午年三月願主住持能外益藝代』と彫付けあり(延寶3年乙卯:1675年)。

地蔵堂

境内にあり。

般若堂

同上。

祖師堂

同上。

稲荷神社

同上。俗に栗村稲荷と称す。

熊野宮

同上。

寶物

古文書 1通。その文如左(※略)。

古蹟

館跡

下町定林寺の辺民居の地をいう。
今は土居堀の形もなし。
元亀天正(1570年~1593年)の間栗村上総(諱を失う。舊事雑考に天正7年(1579年)12月28日栗村死すというはこの人の事といえば同12年(1584年)松本太郎に与力せし者とは別人なるべし)住せし跡という。