河沼郡牛沢組野老沢村

陸奥国 河沼郡 牛沢組 野老沢(ところさは)
大日本地誌大系第33巻 146コマ目

府城の西に当り行程7里30町。
家数20軒、東西1町50間・南北2町50間、山足に散居す。
東南北に田圃(たんぼ)あり。

東2町3間阿久津村に界ひ只見川を限りとす。
西は数峯と隔て野沢組小杉山村の山に連なり界域分明ならず。
南14町54間麻生村の界に至る。その村まで29町20間余。
北は村際にて小巻村に界ふ。その村まで6町。

旧中野老沢という端村あり。今はなし。

端村

上野老沢(かみところさは)

本村の南6町にあり。
家数12軒、東西1町2間・南北1町20間。
西は山に()ひ三方田圃なり。

山川

飯谷(いたに)

村西にあり。
頂上まで1里計。
西は小杉山村と峯を界ふ。

只見川

村東2町余にあり。
麻生村の境内より来り、北に流るること15町余小巻村の界に入る。

(まきの)

村南3町計にあり。
源は飯谷山より出て、東に流るること30町計只見川に入る。

神社

飯谷神社

祭神 飯谷神?
相殿 伊勢宮
   白山神
鎮座 不明
村西、飯谷山の上にあり。
鳥居拝殿あり。
祭禮は5月5日なり。

神職 舟木伊勢

出倉村に住す。
いつの頃にか舟木左京光政という者初て神職となる。今の伊勢直春に至るまでの世次しれず。

寺院

薬師堂

村西20間山上にあり。
薬師、長1尺余。古佛なり。
棟札の写しあり。表に『寛正四癸未九月大旦那盛詮造立』のよしを注し(寛正4年:1463年)、裏に『應永三十三丙午八月二十佛か徳阿彌陀佛平内次郎荒分覚賢』と書付あり(應永33年:1426年)。應永は草創の年にて寛正は再興の年なるべし。

別当 月光寺

本堂の北にあり。
曹洞宗醫王山と號す。慶長15年(1610年)天養という僧この村に来り、薬師堂の傍に庵室(あんしつ)を営み暫く滞留す。里老相謀て1寺を(はじ)め天養をして住せしむ。その後牛沢村大徳寺の僧洞外村民の拓に応じてここに閑居せり。
今に大徳寺の末山なり。



飯谷神社

町史によると、祭神は句々廼馳命(くくのちのみこと)安閑(あんかん)天皇。
所在地は法人番号検索サイトによれば『福島県河沼郡柳津町大字飯谷甲4415番地』
なお、飯谷神社の本殿は昭和55年(1980年)に焼失し移転。旧本殿跡地はどうにか確認できるとのこと。(福島の山々・飯谷山より)

古地図


伝説・伝承

町史より一部引用

白沼のおこり
慶長の大地震で藤新道が崩れて柳津が大湛水になったとき、飯谷山の山の裏側が崩れてできたのがこの白沼だそうだ。そのころ、小杉山の村は大杉山村といって白沼のあたりにあったそうだが、この飯谷山の山崩れのためにこの村が埋もれてしまい、助かったのは男女僅かに五人、他の百余人はことごとく土砂の中に埋没してしまったそうである。
この時、大杉山村のところにほど近く、白沼ができたのだが、水の色が淡白にみえるところから白沼と名付けられている。
また、飯谷山頂に人が立って、その影が白沼に映るとその人はこの沼の主にひきずりこまれてしまうそうだ。地震、山崩れで生き埋めになった人が呼ぶのだとか、いやそうではない。飯谷山にいた大蛇が住むところがなくなってこの白沼の主になったそうだから、この白沼の主が呼ぶのだなどと伝えている
参照:Google Map - 白沼

白狐さん
上野老沢と下野老沢との間に巻の沢というところがある。その上一つの堂があってそれをお稲荷さまと村の人は呼んでいる。
この堂の主は白狐であったそうで、この白狐さんは、毎日人目につかないようにしては飯谷山の飯谷神社にお通いになったそうである。白狐さんはその時は朝早くでかけていき、夜はおそくお帰りになるそうである。その白狐さんを見た人は後々幸福になるというし、反対に白狐さんを指さしたり石を投げたりすると、その人に禍いが起きるんだそうである。
だから村の人たちは“白狐さん”といって畏崇の念をもっていて白狐さんを見ても絶対に手を出さないことにしている。この白狐さんのお堂には、その裏に犬が入れるくらいの穴を今でもあけられているそうだ。これは白狐さんのために便利をはかってそうしているのだそうだ。

飯谷神社と野老沢
むかし、康安のころ(1361~1362)、野老沢に船木光景という人がいた。光景は芦名盛詮に仕えていたのだが、勘気を受けて稲川荘野老沢によこされたそうである。
この光景は弓矢の射術に達していたものだから、その腕をもって飯谷山の兎を射取ろうとして、その中腹でたまたま一羽の兎に出会った。光景はそれ幸いとばかりにこの兎を追いかけるうちに、兎はついに飯谷山の山頂にまで逃げ登った。光景がこの兎を追いつめて山頂に達すると、その兎は白髪の老人となって現れ出た。そして光景にいうことは、「わたしはこの飯谷の山にきて、ニ千余年にもなる龍蔵権現であるが、だれもわたしをまつってくれるものがない。わたしのために祠を建て祭ってくれ。それすればわたしもこの地方の人々の守りとなるであろう」というと、その姿は消え去ってしまった。
光景はそこで飯谷山にこの神を祭り、自分は只見川の対岸に住居を構えたそうである。この光景が祀ったのが飯谷大明神で、仙人のあごひげがちょうどトコロイモの白い長い根ににているところから、麓の村を所沢、野老沢(ところざわ)というようになったといわれている。また、光景が永住した対岸の地には、飯谷大明神の拝殿として小祠を設けたところから、竜蔵庵の地名が生まれたという。
参照:Google Map - 龍蔵庵地区

反四郎坂と白兎
むかし、反四郎という人がいた。この人が冬のとある日、飯谷山に登る長い坂で一羽の白兎をみつけて、いざこの兎を討たんと銃をかまえたところ、その白兎から後光(ごこう)がさして反四郎の目をくらましてしまった。それとともに大きな音をたてて雪崩がおしよせてきて、あわれ反四郎はそこに生き埋めとなりやがて絶命してしまった。
この反四郎がたおれた長い坂を反四郎坂といって、坂の曲がり角には清水が湧き出て、飯谷山方面に行く人々の憩いの場でもある。
その白兎は飯谷大明神のお使いなので、このあたりで猟はしないほうがよいそうだ。
最終更新:2025年07月15日 18:16
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