河沼郡牛沢組麻生村

陸奥国 河沼郡 牛沢組 麻生(あさふ)
大日本地誌大系第33巻 147コマ目

府城の西に当り行程8里3町。
家数19軒、東西1町12間・南北2町24間。東は川に()ひ西は山に連なる。

東2町持寄村に界ひ只見川を限りとす。その村まで3町。
西は野沢組黒沢村大沼郡大石組水沼村に接し山深くして界域分かちがたし。
南3町50間大沼郡滝谷組檜原村の界に至る。その村まで12町。
北21町46間野老沢村の界に至る。その村まで29町20間余。
また
未申(南西)の方21町大石組西方村(※滝谷組西方村の事か?)の界に至る。その村まで25町。

端村

中山(なかやま)

本村の北18町余にあり。
家数4軒、東西36間・南北24間。東南は只見川に臨み西北は山に倚る。

柴倉(しはくら)

本村の戌亥(北西)の方22町余、山奥にあり。
家数7軒、東西1町・南北26間。
旧ここより3町計南の山上にあり。
元禄中(1688年~1704年)山崩れ養水の便ならずとてここに移す。

樫尾(かしお)

本村の西1里29町にあり。
数山を隔て大石組(滝谷組?)西方大石田両村を経てこの村に至る。
家数3軒、東西38間・南北30間。深山の間に住す。

山川

日向倉(ひなたくら)

村より申(西南西)の方15町余にあり。
高25丈。

黒床(くろこと)

端村樫尾の西1里余にあり。
高90丈。南は水沼村に界ひ北は黒澤村の山に界ふ。

鷹待(たかまち)

端村柴倉の戌亥(北西)の方2町計にあり。
野沢組小杉山黒澤両村の界なり。

銅山

柴倉の南4町余にあり。(うは)沢という。
寛政11年(1799年)始て抗を穿ち多く銅を採り、近頃まで小屋10軒計あり。
今は衰えてわずかに1軒残れり。

金曲(かねのまかり)

村北3町にあり。
登ること8町。坂路屈曲して牛馬通せず。
端村柴倉に往く路なり。

只見川

村東にあり。
西方村の界より来り、北に流るること27町余野老沢村の境内に入る。
小船を設けて持寄村に往来す。

神社

御稷神社

祭神 御稷神?
相殿 稲荷神
熊野宮 2座
鎮座 不明
村北3町にあり。
鳥居あり。出倉村舟木伊勢が司なり。

寺院

安穏寺

村中にあり。
法流山と號す。笈川組浜崎村遍照寺の末寺真言宗なり。
天文17年(1548年)宥尊という僧開基す。
明暦中(1655年~1658年)火災に罹て什器・古器焼失す。来由を詳にせず。
本尊薬師客殿に安ず。

古蹟

館跡

村より亥(北北西)の方山上にあり。
東西15間・南北25間。
天正の頃(1573年~1593年)新井田左京義光という者住せしとぞ。
空堀の形今わずかに存す。


外部リンク等


村名について

明治8年(1875年)、野老沢村・麻生村・持寄村が合併し飯谷村が発足。
明治22年(1889年)、飯谷村・小椿村・藤村が合併し改めて飯谷村が発足。
大正10年(1921年)、柳津村・倉戸村・飯谷村が合併し改めて柳津村が発足。
昭和17年(1942年)、柳津村が町制施行して柳津町となる。
昭和30年(1955年)、柳津町が大沼郡西山村と合併し、改めて柳津町が発足。

余談

樫尾地区の場所が判らない…。
西の方に黒男山(くろとこやま?)があるので美坂高原牧場の北の山間で、逆瀬側の上流付近あたりかと

金曲坂

※地理院地図より(2025/10/14付)

(『柳津町誌 集落編』より芝倉林道の開発
近世において芝倉への麻生からの道路は金曲坂という九十九(つづら)折の急坂を登っていった。崇座神社を経てようやくに尾根の平坦部にたどりついてから、この屋根伝いに芝倉へ達したのである。この道路は芝倉から黒沢金山に通ずるために「黒沢金山通り」といわれていた。

地図

柳津町誌 集落編より)
麻生地区

芝倉地区

崇座神社(大字麻生)

 祭神 不詳
麻生集落の北に細い旧芝倉街道を、約1キロメートルほど急坂を登ると、その中腹に神社がある。木造鳥居は腐朽して倒れているが、広い境内の東側に銀座している宮で、もとは広い境内全域に、神社はたてられていたという。勧請神も月日も知る証拠がない。しかし社名を表す文字が多種多様である。この宮と、周辺にある石碑から拾い上げても4種類ある。惣座大権現・崇座神社・宗座神社・惣座神社の銘である。麻生にこれを調査する文書もなく、古老からのたしかな伝承もききとれなかった。しかし、この信者は麻生地区のみでなく、周辺の人々も参詣しているのは、奉納された幡の多いのによっても想像がつく。
御利益は厄除け、病除け、疱瘡神であるとの信仰なので、所謂厄除けの神のようである。古い時代に疱瘡の流行があり、赤痢、腸チフスその他の病気のときに篤信したという。
『新編会津風土記』とみると、山間集落に惣社という神社が多出している(管理人注:そうでもない)。恐らくはこの惣社であったものが、いつか惣座となったのではなかろうか。麻生の人の伝承をきくと、昔は年1回の祭礼に、村中の全信者が社前に正座して祈願を捧げたので、惣べての人の座席を取るため、神社拝殿を大きく建てたであろうと考えられる。そうすると惣社が惣座に呼びかえられたのかとも類推できるが正確ではない。御祭神も喜多方・野沢地方で惣社は出雲国の出雲大社の御祭神大国主命であるといい伝える。大国主命は、古事記物語の白兎の苦悩を解くことを指示して全開させられた神。その他、民間では医術の神であると信じている。このことから、厄除けの神とすることの民間信仰は当然であると考えられ、麻生の人たちの信じている御利益とも一致する。
信者寄進碑がある。願主丑太郎・亀吉、覚次・為吉・寅吉が麻生の惣代として、奉祀惣彦の大社号碑や、長谷川与四郎忰・陸之助が願主の御宝前碑を安永六年(1777)九月に建てている。
また、明治三十二年(1899)旧六月十日には、斎藤平次、新井田喜平寄進の、立派な賽銭箱も現存している。何れにしても、御祭神は不明とておくが、後人の研究に期待するほかはない。

ちなみに『寛文五年 稲河領牛沢組郷村萬改帳』には下記の記載がある
御宿神宮
村ノ北5町50間ニ在リ、開基不知、方2尺ノ藁葺 社ノ地方20間、栃木1本アリ


江戸時代における柳津地方の郷・組・村図

最終更新:2025年10月15日 19:30