この村もとは門前の地にありて中平村という。文永5年(1268年)今の名に改むとぞ。
何の頃今の地に移りしにか詳ならず。
府城の西北に当り行程7里17町。
家数62軒、東西4町・南北2町。
東は山に続き三方田圃なり。
ここより丑(北北東)の方4町に1区あり。門前という。
家数2軒、東西50間・南北50間。
東北は山に傍ひ西南は田圃なり。
東30町
漆窪村及び
片門村の端村軽沢の山に界ふ。
西12町18間
茅本・
森野・
小島3村の地に界ふ。森野村まで16町40間余。
南4町20間
茅本村の界に至る。その村は未(南南西)に当り7町40間。
北4町45間
小島村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り6町30間余。
山川
鳥屋峠
村東30町にあり。
頂まで5町、
漆窪村及び
片門村の端村軽沢と峯を界ふ。
もと越後に通る街道なりしという。
松尾川
村北にあり。
源は境内の山中より出、亥(北北西)の方に流るること30町余
小島村の界に入る。
広3間。
土産
梨
この村より出るもの他に比すれば味よし。
また村より丑(北北東)の方5町に1株の梨あり。味殊に甘美なり。今は半枯し実を結ぶこと少し。
水利
大堰
堤4
一は村より卯辰(東~東南東の間)の方1町にあり。周2町40間、新堤という。明和4年(1767年)に築く。
一は村より辰(東南東)の方50間にあり。周5町50間、沢田堤という。
一は村西1町にあり。周2町、原堤という。
一は村西4町にあり。周1町55間、山本堤という。
神社
天満宮
村より未(南南西)の方2町にあり。
野沢本町伊藤対馬が司なり。
熊野宮
祭神 |
熊野宮? |
相殿 |
山神 2座 |
|
伊勢宮 |
|
稲荷神 |
|
白山神 |
|
御稷神 |
勧請 |
不明 |
村東1町山麓にあり。
鳥居あり。伊藤対馬これを司る。
松尾神社
祭神 |
大山咋命 |
鎮座 |
不明 |
村より丑(北北東)の方5町山麓にて100余級の石階を升る。
真福寺これを司る。
鳥居
両柱の間6尺。
本社
3尺5寸に3尺、巳(南南東)の方に向う。
幣殿
1間半に1間。
拝殿
3間に2間。
寺院
真福寺
村より丑(北北東)の方5町にあり。
松尾山と號す。
何の頃にか鎌倉真福寺の住僧慈心ここに来り7堂の梵刹を創建し、弥陀を本尊とし堂ごとに一軀の佛像を安置せしとぞ。また一宇の大塔を建立し康安2年(1362年)本師大覚の像(
舊事雑考に釈迦の像と記せしは誤りなり)を刻てこの中に安ずという。今境内に礎石存す。
昔は
許多の寺料もありしが葦名盛氏の時に失うという。
慈心より法流相続すること7世にして断絶す。
慶長19年(1614年)曹洞の徒明巖という僧越後国蒲原郡津川の城主(岡半兵衛重政がことにや)に頼て再興し上野国白井雙林寺の末山となりしという。
またこの寺に管粥祭ということあり。毎年正月14日の夜1村の農民白米少しづつを
齎し本尊の前に通夜し、田畠作毛風雨水旱等の名物
悉く牒に記しその数とひとしく芦にて管を製し(この芦はこの寺の北にある
葭池という池に生するをもちうという)白米と共に本尊に供え、夜半に至り白米をとり半をもて団子に製し件の白米と赤小豆に雑えて粥に煮、翌朝に管をあけてまた本尊に供しその後通夜せしもの彼粥を食す。卒てさきに供せし芦管をとし1人進、初しるせし牒に挍せて毎管をさき煮粥の充る所の多少をもて諸作の吉凶及び水旱風雨を占うに違う事なしという。
客殿。
8間半に5間、半南向き。
本尊弥陀秘佛なり。
則慈心安置せる所の本尊なり。
寶物
大覚木像 1軀。
長1尺2寸5分の座像なり。體の裏面に銘あり。如左。
大奉行周珉旦那宇多河道忠
大佛師法橋 乘圓
旹康安壬寅年奉八月廿四日造立松尾山眞福禅寺住持
※康安2年壬寅:1362年
大般若経。
写本にて朽損し巻数さだかならず。その第1巻に左の書付あり。
竒進大般若六百巻大法主僧興源女施主源氏
爲現世安穏後世菩提 執筆僧實圓
于時承元五辛未年二月彼岸
※承元5年:1211年
花瓶 1対。
木像にて径7寸。その1に朱漆にて『永正十二乙亥年住持垩恱代』と書付あり
※永正12年:1515年
佛像 3軀。
朽腐して何佛なることを分たず。
各長7寸の立像なり。
鞍 1具。
何人にか宇多河信濃道忠という者開山慈心に俗縁ありてこの地に来り住せしがこの鞍を当寺に納めしという。
額 1枚。
松尾山の3字を彫れり。
筆者知らず。古物なり。
古蹟
館跡
村北2町舘山という所にあり。
東西1町余・南北40間。
堀切の形存す。
宇多河信濃道忠住せし所という。
松尾神社
松尾神社の祭神
大山咋神は山の地主神で農耕治水を司る神です。
※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)
野沢のこの地区を見ると鳥屋峠を抜けて他の村へと行くという記載が多々あります。片門村で
鳥屋峠の記載をしたときは軽沢から池原への道だけだったのですが、もっと広範囲に考える必要がありそうです。鳥屋山を中心とした各村への山道全体を鳥屋峠と定義した方が正しいのかもしれません。特に松尾村へと抜ける山道は旧越後街道との記載がありますが、いつの時代までの越後街道だったのかも不明です。時代が進むにつれて3段階に街道のルートが変わったのではないでしょうか?
越後街道の遷移。
1:片門~天屋/本名~束松峠~鳥屋山の北側~鳥屋峠~松尾~野沢
2:片門~天屋/本名~束松峠~軽沢~青坂~青坂峠~縄沢~野沢
3:片門~藤~藤峠~大畠~兜石~縄沢~野沢(ほぼ現在の国道49号線)
※地図上を俯瞰して考察したものです。間違いがありましたらご指摘ご教授をお願いします。
最終更新:2025年07月05日 22:32