耶麻郡川東組荒野村

陸奥国 耶麻郡 川東組 荒野(くわうや)
大日本地誌大系第31巻 171コマ目

この村もとは丑(北北東)の方16町川桁山の麓本寺という所に住し高野村と称す。康暦の頃(1379年~1381年)より寺の名により観音寺村と唱え、天正の初(1573年~)火災に罹り今の地に遷り、寛文中(1661年~1673年)今の名に改む。

府城の東北に当り行程6里10町。
家数37軒、東西50間余・南北4町12間。
二本松街道に住す。
東は山により三面田圃(たんぼ)なり。

東5町余都沢村の山に界ふ。
西4町35間・北4町49間、共に新屋敷村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り4町50間余。
南2町37間都沢村の界に至る。その村は巳午(南南東~南の間)に当り8町50間。

山川

川桁山(かはけたやま)

村より丑寅(北東)の方25町余にあり。
山脉(さんみゃく)南北に綿延(めんえん)し、北は小田村の山に続き内野村の山に連なる。
数十村入逢の山なり。

観音寺川

村より丑寅(北東)の方15町30間余にあり。
川桁山より源を発し、西南に流るること14町余新屋敷村の界に入る。
上流に処々瀑布あり。

三重滝

観音寺川の上流にて川桁山の半腹にあり。
懸水3級となり遥に山谷に潟くこと20丈計。

原野

中川原

村北1町余にあり。
東西4町10間余・南北1町50間余。

西原

村北6町余にあり。
東西6町余・南北2町30間余。

牧場

村の辰(東南東)の方40間余にあり。
東西5町50間余・南北2町30間余。

神社

天王神社

祭神 天王神?
相殿 稲荷神
   愛宕神
   若宮八幡
   熊野宮
   山神
   三島神
   幸神
鎮座 伝・天長の頃(824年~834年)
村の丑寅(北東)の方7町にあり。
相伝ふ。天長の頃(824年~834年)の鎮座なりと。
鳥居あり。

別当 自性院

本山派の修験なり。
何の頃にか鈴木兵部重清という者修験となり自性院幽慶と改む。現住寛慶は37世の孫なりという。

寺院

観音寺

村より寅(東北東)の方4町30間にあり。
曹洞宗、山號を慈應山という。
昔はここより丑(北北東)の方11町計山奥(今本寺という所あり)にあり、文禄の頃(1593年~1596年)今の地に遷す。
何れの僧の草創にか詳ならず。
三浦大炊助経連始て猪苗代に来りしとき観音の像を負せ来り、川桁山の麓に1宇の蘭若を構え観音を安置し100貫文の地を寄付せしという(入江村入江村の条下を併せ見るべし)。
天正の頃(1573年~1593年)良積という僧住せり。然るに盛國既に伊達家に属して後この寺も廃せしを、文禄の初越後国指合村光明寺存鏡が弟子蘭室という者廃寺を興し光明寺の3世黙山と請て開山とし、即その寺の末山となる。
寛文の頃(1661年~1673年)にや、旧址より断碑を得たり。恵鑑禅師元弘元の7字を存せり。今はなし。
観音を本尊とし客殿に安ず。春日作という。三浦経連携来りしとぞ。この腹籠の観音なりとて今川西組三城潟村長照寺にあり。

鐘楼

境内にあり。
鐘径1尺9寸、『萬治元戊年施主佐藤安藝古川平右衛門難波茂左衛門』と彫付けあり(萬治元年:1658年)。

石塔2基

一は旧址より遷すという。今は庭前におく『應永十八年十月吉日卅三年忌唯明』とはさだかに見ゆれども末の1字剥落して見えず(應永18年:1411年)。後に『川桁山主白』とあり。
一は客殿の北にあり。圭首の塔なり。前に『孤庵浄雲禅定尼慶長二酉年五月廿六日』とあり(慶長2年:1597年)。右に『為孝母造立之』とあり、左に『難波茂左衛門』とあり。

寶物

拂子     1柄。唐物なりという。極めて古物なり。
二十五條袈裟 1頂。蜀紗なりという。
蛇骨     長2尺計(約60㎝)。頭より背の6、7節をのこせり。明和中(1764年~1772年)屋上修葺の時得るという。頭の周9寸8分。

古蹟

館跡

村東山上にあり。
何れの頃に架村民姦賊の乱妨を恐てこの館を築き楯籠りしという。

経塚

観音寺の旧址本寺にあり。
周70間余。
何れの頃にか観音寺の住僧稲閑築くという。


最終更新:2020年06月12日 22:14