府城の東北に当り行程6里30町。
2区に住しその間1町を隔つ。
東南を上内野という。家数19軒、東西1町42間・南北4町2間。
西北を下内野という。家数9軒、東西1町16間・南北1町6間。
共に東は山に傍ひ四方田圃なり。
東1里計
小田村の山に界ひ大倉山と限りとす。
西4町47間
明戸村の界に至る。その村は申酉(西南西~西の間)に当り5町10間余。
南6町
白津村の界に至る。その村は未申(南西)に当り7町余。
北4町
下館村の界に至る。その村まで7町10間余。
端村
大水沢新田
下内野より北の方、
荻窪村の境内を隔て1里にあり。
家数5軒、東西48間・南北48間。
四方田圃なり。
寛永中(1624年~1645年)に開く。
地面、東西5町計・南北3町。東南は荻窪村の地に交わり西南は
堀切村の田圃につづく。
山川
大倉山
下内野の東1里にあり。
東北は小田村に属し南は白津村に属す。
苧紡峠
上内野の北1町にあり。
15間計の小坂なり。
道の側に昔古松樹あり、山姥の住しとて世々糸をひく車の音聞えしという。今は松も枯ぬ。
原野
原
下内野より丑(北北東)の方2町にあり。
四方6町余。
秣場
下内野より丑寅(北東)の方2町にあり。
東西16町余・南北6町余。
水利
五箇村堰
堤2
共に上内野・下内野の間にあり。
一は東西45間・南北50間。
一は東西20間・南北30間。
寺院
蔵圓寺
上内野の東にあり。
曹洞宗巖松山と號す。
縁起に、大永中(1521年~1528年)小檜山六郎(
舊事雑考に三浦行盛が支族なりとあり)という者この村を領し、1宇を闢き真言の徒長應を住職とし寺領1000苅の地を寄付す。その後住持泉應という者この寺を棄て奔りしより廃せり。然るを隣宗という僧信夫郡より来り住し、仙台領亘理郡雄山寺の末山となる。
本尊釈迦客殿に安ず。
観音堂
下内野にあり。
草創の初しれず。
修験金剛院これを司る。
墳墓
三浦左馬助盛胤墓
上内野の東1町20間、山腰にあり。
(盛胤の事
猪苗代城并に
金曲村の条下に見ゆ)。
按ずるに、盛胤猪苗代城にありしとき恩惠民に深かりしにや。今なお村民その人を慕い崇敬すること大方ならず。常に墓を掃い供養の塔を建つ。
一説に、父盛國伊達家に内応し葦名の
社稷を覆さんことを謀りし時、盛胤
屢父を諫めしかば遂に罪を得て追出され、磨上の戦にも父の旗進むを見て退き、それより伊達の手の陣に駆入り深手を負て横沢に帰る。葦名没落の後蒲生氏にも仕えずこの村にて終れり。
文化2年(1805年)より年々1夫の役を免じ、その墓を掃い荒穢せざらしむ。
最終更新:2020年06月13日 20:44