耶麻郡川東組内野村

陸奥国 耶麻郡 川東組 内野(うつの)
大日本地誌大系第32巻 8コマ目

府城の東北に当り行程6里30町。
2区に住しその間1町を隔つ。
東南を上内野という。家数19軒、東西1町42間・南北4町2間。
西北を下内野という。家数9軒、東西1町16間・南北1町6間。
共に東は山に()ひ四方田圃(たんぼ)なり。

東1里計小田村の山に界ひ大倉山と限りとす。
西4町47間明戸村の界に至る。その村は申酉(西南西~西の間)に当り5町10間余。
南6町白津村の界に至る。その村は未申(南西)に当り7町余。
北4町下館村の界に至る。その村まで7町10間余。

端村

大水沢新田(おほみつさわしんでん)

下内野より北の方、荻窪村の境内を隔て1里にあり。
家数5軒、東西48間・南北48間。
四方田圃なり。
寛永中(1624年~1645年)に開く。
地面、東西5町計・南北3町。東南は荻窪村の地に交わり西南は堀切村の田圃につづく。

山川

大倉山(たいくらやま)

下内野の東1里にあり。
東北は小田村に属し南は白津村に属す。

苧紡峠(おつむきとうげ)

上内野の北1町にあり。
15間計の小坂なり。
道の側に昔古松樹あり、山姥の住しとて世々糸をひく車の音聞えしという。今は松も枯ぬ。

原野

下内野より丑(北北東)の方2町にあり。
四方6町余。

秣場

下内野より丑寅(北東)の方2町にあり。
東西16町余・南北6町余。

水利

五箇村堰

下館村の方より来り田地の養水とし2派となり、一は白津村の方に注ぎ、一は明戸村の方に注ぐ。

堤2

共に上内野・下内野の間にあり。
一は東西45間・南北50間。
一は東西20間・南北30間。

寺院

蔵圓寺

上内野の東にあり。
曹洞宗巖松山と號す。
縁起に、大永中(1521年~1528年)小檜山六郎(舊事雑考に三浦行盛が支族なりとあり)という者この村を領し、1宇を闢き真言の徒長應を住職とし寺領1000苅*1の地を寄付す。その後住持泉應という者この寺を棄て奔りしより廃せり。然るを隣宗という僧信夫郡より来り住し、仙台領亘理郡雄山寺の末山となる。
本尊釈迦客殿に安ず。

観音堂

下内野にあり。
草創の初しれず。
修験金剛院これを司る。

墳墓

三浦左馬助盛胤墓

上内野の東1町20間、山腰にあり。
(盛胤の事猪苗代城并に金曲村の条下に見ゆ)。
按ずるに、盛胤猪苗代城にありしとき恩惠民に深かりしにや。今なお村民その人を慕い崇敬すること大方ならず。常に墓を掃い供養の塔を建つ。
一説に、父盛國伊達家に内応し葦名の社稷(しゃしょく)を覆さんことを謀りし時、盛胤(しばしば)父を諫めしかば遂に罪を得て追出され、磨上の戦にも父の旗進むを見て退き、それより伊達の手の陣に駆入り深手を負て横沢に帰る。葦名没落の後蒲生氏にも仕えずこの村にて終れり。
文化2年(1805年)より年々1夫の役を免じ、その墓を掃い荒穢せざらしむ。



最終更新:2020年06月13日 20:44

*1 苅:田の面積を表す単位。穎稲10把(10束)が採れる土地面積のこと