耶麻郡川東組白津村

陸奥国 耶麻郡 川東組 白津(しろつ)
大日本地誌大系第32巻 7コマ目

府城の東北に当り行程6里。
家数42軒、東西2町余・南北3町38間。
東は山に続き四方田畠なり。

東1里20町余二本松領安達郡中山村の山界に至る。
西4町24間東館村の界に至る。その村まで6町20間。
南2町12間新屋敷村の界に至る。その村まで4町50間余。
北4町余内野村の界に至る。その村まで7町余。
また
未(南南西)の方2町12間曲淵村の界に至る。その村まで5町40間余。
戌(西北西)の方6町24間明戸村の界に至る。その村まで10町余。
巳(南南東)の方2町12間荒野村の界に至る。その村まで12町。

山川

川桁山(かはけたやま)

村より寅卯(東北東~東の間)の方16町余にあり。
頂まで17町余。
高山にて数村の入逢なり。

水利

五箇村堰

内野村の方より来り曲淵村の方に注ぐ。

村東5町計にあり。
周3町余。

神社

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 稲荷神 2座
   愛宕神 2座
   羽黒神
   鹿島神
   総社
   金鑄神
   荒神
   若宮八幡
   明神
   伊勢宮 3座
   熊野宮 2座
   八王子神
   山神  3座
鎮座 永保中(1081年~1084年)
村の辰巳(南東)の方3町余、山麓にあり。
林木蕃蔚し古祠と見ゆ。この社は永保中(1081年~1084年)小川顚真・松崎小主税・佐藤丹三郎3人(本州の人なりという)八幡宮の木像を奉じ来りこの山上に祠れり。星霜を経てその祠零落す。然るに三浦大炊助経連この地に来り八手山に住し、1日南の方山林の中に白幡1旒空中より降り樹上にかかり10余日かほど失す。経連あやしみ従者を具しその所を尋見るに、破壊せる小祠に八幡の神像を安ず。経連崇敬の余宮殿を経営し白幡八幡と称し田地2町を寄付す(今宮田という)。丹三郎が裔與三郎信成というものを祠官とし経連みづから證文をかきて与う(その書今は亡う)。
蒲生氏神社佛宇の田地等を改るとき、社家その社領を告ずしてみな没収せらる。肥後守正之封に就いて再興す。
祭禮8月14日、15日なり。

鳥居

1ノ鳥居、二ノ鳥居あり。
共に両柱の間8丈。

本社

5尺5寸四面、西向き。
鰐口1口あり。その銘にいう、『享徳元年壬申十月二日東上秋中寺徳林寺常住村人敬白』と(享徳元年:1452)。今は亡う。
天正11年(1583年)の春三浦盛國同嫡子盛胤所願の事ありて八幡の木像1軀を納む。その背に『奉造立白幡八幡大菩薩為現世安穏後生喜所子孫繁榮也天正十一年癸未三月十五日平盛國同盛胤』と刻せり。

幣殿

9尺四面。
拝殿。
3間に2間。

寶物

日石 1顆。鶏卵の如く色浅赤なり。
長刀 1振。三浦時盛奉納という。
槍  2本。一は時盛奉納、一は盛胤奉納という。

神職 鈴木山城

遠祖を直光という。今の山城紀周はその36世の孫なりという。

古蹟

八手山館跡

村より寅(東北東)の方4町計、根岸山という処にあり。
東西20間・南北11間。
三浦経連が居処なりしという。

寺跡2

一は村東6町余にあり。秋中寺という寺ありし所という。
一は徳林寺迹なりとて村の辰巳(南東)の方7町余にあり。
共に隣松院(今下館村にあり)の末寺曹洞宗なりしとぞ。
廃せし年代を伝えず。





最終更新:2020年06月13日 18:48