耶麻郡川西組島田村

陸奥国 耶麻郡 川西組 島田(しまた)
大日本地誌大系第32巻 20コマ目

昔は今の民居より6町亥子(北北西~北の間)の方に家居せりとぞ。

府城の東北に当り行程4里24町。
家数21軒、東西1町20間・南北2町。
四方田圃(たんぼ)なり。

東2町20間堤崎村の界に至る。その村まで3町30間余。
西3町30間大在家村の界に至る。その村は申(西南西)に当り7町20間余。
南2町34間釜井村の界に至る。その村まで5町10間。
北5町8間川東組町島田村の界に至る。その村まで10町余。
また
丑(北北東)の方7町10間川東組町堤崎村の界に至る。その村まで8町余。
辰(東南東)の方2町40間百目貫村の界に至る。その村まで5町。

山川

梵天清水

村より亥子(北北西~北の間)の方12町、川東組町島田村の界にあり。
周8間、田地の養水とす。
名付し謂れを伝えず。

墳墓

五輪1基

村中にあり。
相伝ふ。永徳の頃(1381年~1384年)この村に冨有の民ありその墓なりという。一説に、もとは加賀国の武士にて渡部道徳と称しこの村に住し、その子孫延寶中(1673年~1681年)川東組大原新田に遷り農民となるという。今大原新田村に彼が携来り種しとて加賀梅という古木あり。

古墓

村北8町墓所の中にあり。
野面石にて表平かに高5尺計・幅4尺程、四方に縁あり。額に梵字2字、その下に蓮花座あり。下に『右奉造立石塔婆一基両面志者為慈父悲母逆修□□□□□終決定往生極樂證大菩提乃至法界平等利益成嘉元三年大歳乙巳四月十五日□□孝子敬白』とあり。中字体を弁せざる処多し。

古蹟

酸川古道

昔、酸川西流しこの村の側を流れ西窪村の辺にて湖水に入りしという。村の戌(西北西)の方5町西野(にしの)という所に小沼凡21あり。みな酸川の跡なりとぞ。この沼の下流大在家・東真行・烏帽子小屋3村の田地を潤す。







最終更新:2020年06月21日 14:37