この村昔は3町計戌亥(北西)の方にあり。元和中(1615年~1624年)今の地に遷すという。
府城の東北に当り行程4里18町。
家数14軒、東西1町50間・南北1町。
四方田圃にて南に釜井川あり。。
東5町24間
百目貫村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り10町。
西4町30間
大在家村の界に至る。その村まで4町50間余。
南は村際にて
烏帽子小屋村に界ふ。その村まで1町10間余。
北2町55間
島田村の界に至る。その村まで5町20間余。
また
丑(北北東)の方6町12間
堤崎村の界に至る。その村まで9町30間余。
山川
釜井川
昔水上に1の釜あり。村民取て主を求むれども知ざれば泥中に埋む。故にこの名ありとぞ。
大在家村の境内より来り、村南を経て西より東に流るること8町10間余
烏帽子小屋村の境内を過ぎ湖水に入る。
古蹟
古碑
村より戌亥(北西)の方3町20間、畠の中にあり。
高5尺・幅3尺。額に梵字を彫り、下に『正和二年癸丑十月十八日』と彫付けあり(正和二年:1313年)。来由知らず。
余談。
大在家村の欄外にも書きましたが、磐越自動車道を敷く際(猪苗代磐梯高原IC~会津坂下IC開通は平成4年(1992年))に川の流れを変えた為釜井川は無くなってしまったようです。明治41年(昭和6年改訂)の地図(磐越西線が若松まで開通したのは明治32年(1899年))に大在家村から釜井へと流れる水路が確認できるので、高速自動車道が出来たタイミングかと思うのですが、それを裏付ける資料が見当たりませんでした…。
※地理院地図(明治41年測図/昭和6年修正)
最終更新:2020年06月30日 14:01