建仁の頃(1201年~1204年)田邉義秀という者この地に来り館を築いて住し、新たに田地を闢きしゆえ新井田村と號くという。
府城の北に当り行程3里24町。
家数24軒、東西2町20間・南北1町14間余。
四方田圃なり。
東2町39間
熊倉組高木村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り5町20間余。
西43間余・北3町2間、共に
熊倉組源太屋敷村の界に至る。その村は北に当り5町10間。
南6町54間余
塩川村の界に至る。その村まで21町10間余。
また
巳(南南東)の方9町30間
別符村の界に至る。その村まで12町30間。
山川
姥堂川
大奈川
村西3町40間余にあり。
源太屋敷村の方より来り、6町10間余斜めに辰巳(南東)の方に流れ姥堂川に注ぐ。
広4軒計。
関梁
橋
村東姥堂川に架す。幅4尺余・長10間半。
隣村に行く路なり。
神社
三島神社
村北にあり。
鳥居拝殿あり。徳昌寺これを司る。
寺院
徳昌寺
三島社の西にあり。
曹洞宗寶珠山と號す。開基詳ならず。
慶長元年(1596年)金鷟という僧住す。承應元年(1652年)
会津郡南青木組天寧村天寧寺15世善尊住せしより
天寧寺の末山となる。
本尊釈迦客殿に安ず。
古蹟
館跡
村中にあり。
東西32間・南北42間。
堀・土居の形なお存す。
建仁3年(1203年)田邉右衛門義秀築くという。
旧家
田邉新左衛門
この村の肝煎なり。先祖を右衛門義秀という。熊野別当湛増が支族にて壽永年中(1182年~1184年)源平の軍に湛増従わん所を知らず、神慮に任せんとて新宮の社前にて赤白の鶏を番え闘わしめ、白きを源氏とし赤きを平家と定め雌雄を卜せしに赤鶏みな雌伏す。さては源氏の御方に参らんと僉議して源義経の麾下に従う。義秀八島の合戦に功あり。建仁元年(1201年)この国に来り耶麻郡猪苗代に住し、同3年(1203年)ここに来り住す。
その裔孫五郎左衛門秀将というもの天正14年(1586年)故有て所領を失う。新左衛門に至るまで世次詳ならず。
家に文書1通を蔵む。何人のあたえしということを伝えず。朱印あれども分明ならず。意うに伊達家よりあたえしものにや。その文左に録す(※略)。
最終更新:2020年07月01日 13:29