府城の北に当り行程3里25町余。
家数23軒、東西40間・南北4町33間余。
四方田圃なり。
東5町58間
小沼組常世村の界に至る。その村まで12町10間余。
西2町8間
熊倉組高木村の界に至る。その村は未(南南西)に当り2町40間。
南30間
下小出村の界に至る。その村まで3町10間余。
北は村際にて
小沼組上利根川村に界ふ。その村は寅(東北東)に当り5町50間余。
また
亥(北北西)の方2町39間
熊倉組太田村の界に至る。その村まで10町50間余。
この村もとは2町余東、米沢街道の傍にあり。元禄2年(1689年)今の地に移す。
山川
大塩川
村東6町20間にあり。
上利根川村の境内より来り、南に流るること6町20間
上窪村の界に入る。
水利
小塩堰
神社
三島神社
祭神 |
三島神? |
相殿 |
伊勢宮 |
|
伊豆神 |
|
諏訪神 |
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天王神 |
鎮座 |
不明 |
村中にあり。
鳥居拝殿あり。北小路大久保播磨仮に司る。
寺院
真福寺
村東にあり。
真言宗川西組本寺村恵日寺の末山なり。山號を相應山という。
何れの頃の草創にか詳なる事を知らず。
永禄3年(1560年)看尊という僧修造せりという。
この寺も昔は米沢街道の東にあり、正徳4年(1714年)今の地に移す。
本尊観音客殿に安ず。
古蹟
石碑
村東2町余、米沢街道の傍にあり。
高2尺余・幅1尺5寸計。
上に梵字あり、下に『若持八万四千法蔵十二部経為人演説右為咸行卅三年貞治六丁未八月廿八日』と彫る(貞治6年:1367年)。
旧家
彌右衛門
この村の農民なり。先祖は葦名家譜代の臣にて神田助六郎季運という。
天正の頃(1573年~1593年)川西組行津村を領す。
その子を右馬允季順といい、伊達政宗猪苗代に乱れ入りしとき右馬允を招いて猪苗代盛國が手に属し磨上の戦いに向わしむ。右馬允やむことを得ず盛國に従しが、兎角して戦場を遁れ塩川村に来り知音のもとに隠住り、歳月を経て慶長4年(1599年)に本郡別符村の地に新田を闢いて1村とし下小出村という。後下小出・下利根川両村の肝煎となりこの村に住す。
その子七右衛門季説、その子新七季胤相続いて肝煎となる。今の彌右衛門はその後なり。
また下小出村の百姓利右衛門というものは彼神田が支族なりとて、慶長4年(1599年)荒地を闢きし時の文書を蔵む。その文左に録す(※略)。
追記:下利根川石造供養塔
コメント欄にて情報頂きました。
現在真福寺の境内に移設(?)されており、市の文化財として登録されているようです。
最終更新:2020年07月21日 18:47